浮気について哲学した話②
この記事では前の記事に記載した、
①『なぜ浮気をされると悲しいのか?』
について哲学科のタヌキが考察します。
まず、前提として『浮気』とはなにか?
について書かせていただきます。
こういう時には広辞苑を使うべきなんでしょうが持っていないのでグーグル先生に聞いてみました。
グーグル先生曰く、
〈心が浮ついて変わりやすいこと。一人の異性だけを愛さず、あの人この人と心を移すこと〉
とのこと。
ちなみに『不倫』は、グーグル先生教えてくれませんでした。その代わりに『姦通』が出てきて、こちらは
〈男女が不義の交わりを結ぶこと〉
とのこと。
浮気をした結果の姦通って感じでしょうか。
とにもかくにも、今回使う『浮気』という表現は、一対一の恋人関係、夫婦関係を対象とします。
その関係性にある人間が、自分以外の他の人物に心を浮つかせること、愛すること、不義の交わりを結ぶこと、これを『浮気』と呼ぶことにしてみます。
まどろっこしくて嫌になっちゃいますね!
そもそも心の浮つきってなんじゃらほいって感じですよね。
そんな浮つき何年も感じてないし感じてみたい今日この頃ですが、
この抽象的な『浮つき』という表現、割と大切に思います。
またもやグーグル先生に登場してもらおうと思ったのですが、教えてくれなかったので
Weblio辞書さんに教えてもらいました。
『浮つき』とは、
〈気持ちがうきうきとして、落ち着きがなくなる。軽薄な感じがする。〉
とのこと。
つまり、『心の浮つき』という言葉に対しては『軽薄な感じ』がニュアンスにあることが何となく分かります。
ここまで見てみると、
浮気=軽薄な行いである故に否定的であるように思われます。
でも軽薄な行いだから悲しいのか?
と聞かれると違うような気がします。
人によっては「本気じゃない浮気ならいい」
と言う人もいますよね。
思うに、
「私たちの関係は軽薄ではない」
と思い込んでいることが原因なのだと思います。
軽薄ではない、と思っているから相手がそれを裏切ると悲しくなるのです。
ああそんなもんだったの、と。
愛していると言ったやんけ、と。
ラヴ・イズ・オーヴァーです。
でも考えてみてください。
浮気も恋愛体験の一種なんです。
ただ先に恋人関係、夫婦関係を自分と結んでいた人間が、他の人間と恋愛関係になることを浮気と表現しているだけなんです。
ここで問題なのは果たして、自分と浮気相手における『愛情に対する軽薄さ』は明確な違いがあるのか?
という点です。
正直、違いはありません。
浮気という言葉が適応されるのは、夫婦間、恋人間における関係上の問題であって
『愛情に対する軽薄さ』
言い換えると
『愛情の深さ』は全く適応外の位置にある事柄だからです。
よって、浮気=浮ついたもの、軽薄なもの、という意味は実質と異なると考えます。
愛情の深さ、が関係ないのだとすると、
じゃあどうして浮気って悲しいのでしょうか?
ものすごーく愛していた人に浮気をされたら、自分に愛情があったから、それを裏切られたから悲しいのだと思うかもしれません。
でも、それって多分違うんです。
浮気における私たちの大きな問題の一つは
『相手が自分の所有であると思っていること』
これだと思います。
恋人関係、夫婦関係、というのは全て社会的なものであることはご理解いただけると思います。
社会的という意味は、この世界に生まれて『教えられた』ものという意味と捉えてください。
つまり、初めからこの世界にあったものではなくて、社会によって作られたものなんです。
当たり前田のクラッカーって懐かしいギャグかが思いつくほど、
人間関係=自然界の理のように、初めから作られたルールはないもの
なんです。
一夫多妻なんかを例にとってみると、
浮気が生物的なもの、と言うよりも、とても文化的な側面を持つものだということが分かります。
それでも多くの文化で浮気=悪いこと、悲しいこと、とされているのは上記に書いた通りの考えが根本にあるからだと思います。
口約束でも書類でも構いませんが、ある『契約関係』にあると認識した他者に対して、
私たちは一定の所有欲を抱くのだと思ってください。
(いや、俺は私は大切なパートナーを所有なんてモノみたいな扱いしないし、束縛なんてしない!と思われた方もちょっと読んでみてください)
この所有欲、というのは
相手の肉体、精神が、ある契約によって、自分に一定の権利が許されている
と感じるが故の、欲望です。
ただの知り合いにキスをしたり、デートをしたり、肉体関係を結んだりはしません。
(セックスフレンドや行きずりの相手は別ですが、ちょっと話がずれてしまうので割愛します)
同じように、ただの知り合いに気を許したり愛を囁いたりはしません。
ある関係を結んでいるからこそ、許されている。
そう感じたときに、私たちは知らず知らずのうちに、その許容に執着するようになります。
肉体関係は快ですし、精神的快も手放したくないですもんね。
これを『契約』として制度化したのが、
恋人、夫婦です。
この制度があると私たちはパートナーから与えられる心地よい快を安心して受け取ることが出来ます。
快を与えてくれる存在の所有を目に見える形にしたものが、恋人関係、夫婦関係なんです。
さて、この快が無くなってしまったらどうしましょう。例えば、パートナーが他の人間と恋人関係を結ぼうとしたら?
そうしたら、きっと悲しいですよね。怒りますよね。
自分に快を与えてくれる存在が居なくなったら、とても辛いし困ります。
そこで登場するのが『契約』です。
私たちはパートナーに対して契約違反を迫ります。浮気とは言わば、一方的な契約違反ですからね。
ここまで読んでみて「なぁに当たり前のことを」って思われた方。
全くもってそうなんです。
浮気をされて悲しいのは、契約違反をされたからなんです。
自分に快を与えてくれる他者を、所有していると思い込ませることが『契約』。
そして、その『契約』が違反されることに対する悲しみ、それが全てなんです。
ちょっと話が変わります。
みなさん、所有してるものってありますか?
頭に思い浮かべてみてください。
とりあえず、私はパッとスマートフォンが思いつきました。それと服とか本とか色々ありますね。
思いついたなかに、
『自分を所有している』
って考えた人はいるでしょうか?
これまでの文章を読んでくれた人は、自分の子供や恋人、ペットが自分の所有であるとは
考えないかもしれません。
でも、どうでしょう?
『自分自身』って所有していますか?
もう一度、グーグル先生に登場していただきましょう。
『所有』とは、
〈(自分のものとして)持つこと。所持〉
とのこと。
自分を自分のものとして持つ???
サッパリですね。意味不明の極致です。
哲学科に居ると〈わたし〉が〈わたし〉であることの〜うんぬん〜みたいな文章をめちゃくちゃ読まされます。わたしのゲシュタルト崩壊が起こる前に先に進みます。
自分の肉体と精神を分けて考えたときに、それはあなたの思い通りになっているでしょうか?
大抵の人はなっていないんじゃないかなあと思います。
肉体は顕著です。指が切れたら勝手に痛がるし、知らないところで内臓が勝手にウイルスと戦ってるし、全然思い通りになりません。
精神は? いま、このブログを読んでいるあなたの精神は思い通りになっていますか?
ちなみに、私は全然思い通りになっていません。
そもそも。この文章を打ち込んでいる私の精神が目に見えないし、どうやって脳内で話しているのかも分からないし、どこに存在しているのかすら分からないんです。
存在していることをわたしの精神自体が認識しているので、多分あるんだろうなあとは思うんですけどね。
(明日から使える言葉でコギト・エルゴ・スムというやつです。初めて哲学科っぽいです。
デカルトのスーパー有名な『我思うゆえに我あり』ってやつです。
ちなみにデカルトはこの後、この説を辞めちゃったらしいんですけど理由を知らないので、詳しい人が居たら教えてくれると嬉しいです)
ただ精神分析の世界では
顕在意識、潜在意識、無意識
と分かれるそうなので、
精神分析を信用すると意識=精神も
私たちの思い通りになっていないことになりますね。
この思い通りになっていない『自分』が、
果たして所有しているモノだと表現できるのでしょうか?
ボヤーッとした話なのでちゃんとした根拠は無いわけですが、
完璧に同意できる話ではないことは伝わったかと思います。
それでは元の話に戻ります。
自分自身すら所有しているか怪しい人間が、
他者を所有することは可能か?
これは無理っぽいなーって思いませんか。
肉体も精神も、やっぱり所有することは出来ないんです。
それなのに、私たちは誰かを自分のモノであるように思い込んでしまうんですね。
この思い込み、悪いことばかりじゃありません。
これを『愛』だと表現する人たちは、この思い込みを生きる糧にします。文学にします。物語にします。
だから浮気されて悲しい……となったとき、
冷静になりたい瞬間があったらこの記事を思い出してくれると、
関係性復帰のための手がかりになるやもですね。
長々と書きましたが、
①なぜ浮気をされると悲しいのか
に対する解答は、
契約関係により所有していると感じているパートナーの、契約の一方的破棄により利益が得られなくなる為。
と一応結論付けておきます。
続いて、次の記事では
②なぜ浮気は社会悪とされるのか
について考えたいと思います。
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。
感想、ご意見、ご批判、あればどしどしコメント下さると泣いて喜びます。