知識はツルハシ、知恵は泉ってお話
テストっていらないんです。実は。
小学生、中学生、高校生、大学生……そして社会人(テストをしむける先生も含め)みんな知ってます。テストなんかいらないって。
なんでかって大切なのは「知識」であって、それを試験するのは「知識」の有無と関係ないから。
って話を始めたんですが、実は今回はここから「でもやっぱりテストは必要よね〜」って結論に持っていきます。
社会人になって思うのですが、大人になってもテスト・試験って続きます。義務ではなくなるだけで、たとえば就職とか結婚とか出産とか、そういった諸々のうっすらした常識や生き方、スタンダードが試験的なものとして立ちはだかります。
ただ大人になってGoodなのは、これら試験を「まあ、やらんくてええんちゃう?」って言ってくれる人がいっぱい居ることです。
学生のうちは、大半の人が学校所属の人ですから「いや、とりあえずやっとけよ」ってなるんですが……。親御さんも先生も試験受けてくれないと進級できなくて困りますしね。
かくいう私は中学生まではいわゆる優等生で、高校生は中間層で、大学では超劣等生でした。
はい!
みなさん気付きましたね??
「優等生」「劣等生」
これですね〜〜。
テストの一番ダメなとこはここです!!!
テストの点数が良いのは優等でも劣等でもないのに、なぜかこの概念が広く知れ渡っています。
もちろんたいていの人は、そうではない! とわかっています。
でも「テストの点が良い=優等生」から、さらに「頭がいい」とか「知識がある」に傾くのは違う…いや、違わない?? あれれ?
となりませんか?
だって知識があるからテストが解けるわけです。
Q.1968年ノーベル文学賞を受賞した日本人は誰か?
A.川端康成
こんなふうに言えるのは知識があるから。知っているから解けるんです。
(ちなみにこれを書くさい、川端康成がいつノーベル文学賞を獲ったのか知らなかったのでGoogle先生に頼りました)
じゃあ知識があるってすごいんじゃん?
川端康成がいつノーベル文学賞獲ったか知らないおまえは劣等生じゃん??
いやまったくもってそうです……。
そうなんですよ、テストで問いを解くことができる=すごい。すごいんです。誇るべきことなんです。
じゃあ次の問いにいきましょう。
Q.上記の問題が解けた/解けなかったあなたは頭がいいですか?
答えはどうですか?
自分の能力に自信がある人は、堂々とイエス。謙虚な人はノー。
そしてどちらにしても言うでしょう「まあでも、頭の良さにもいろいろあるからね」。
そうなんです、いろいろあるんです。
そして今やってみた通り「テストできない問題」っていうのがあるんです。残念ながら。
川端康成がわかっても解けない問題はあります。
ここで「じゃあテストできない問題に対応する応用力、人間力を鍛えましょうね〜」って方向で収めることもできるんですが、
今日はもうちょっと面倒くさくいきます。
テストは知識を試すものです。まさに試験。
テストできない問題は、考える力を試します。知恵って表現できるかもしれないですね。
で、知恵には正解がありません。
知識には正誤がありますが。
でもたとえば上記の問題、ヘブライ語で書かれていたら読めますか? ちなみに私は読めないし書けません。これを書いている最中、頑張ってヘブライ語を調べて問題を翻訳してみようか……と血迷いましたが面倒すぎて無理でした。
ああ、わたしにヘブライ語の知識があれば……ヘブライ語の知識さえあれば、これを読んでいる人にちょっとは偉そうな顔ができるのに……。
こんな感じです。
この記事は全世界ネットワークにてアメリカの人フィリピンの人ロシアの人ブラジルの人、ありとあらゆる場所の人たちに公開されますが、基本的に日本語が読める人しか読めません。というかアクセスしません。日本語の知識がある人のみ辿りついて「ひまだし適当に読むか」となるわけです。
知識がないと「この記事に価値のあることがあるか、もしくはないか」すら分からないんですね。
うわ〜すごいバカげたこと書いてある〜!
うわ〜わからんでもないかも〜!
うわ〜何書いてあるか意味不明〜!
こんな感想すら持てないんです。
で、これって実は言葉に限らないです。
私は高校数学2A、100点満点中3点を叩き出しましたが、いまだに数学が美しいと感じる感性がわかりません。わかってみたいけれど、割り算もろくにできないので、どげんかせんといかん……となっている昨今。
ああ、ちゃんと数学やってればなぁ、と後悔しています。知りたい感覚にたどりつけないんです。知らないから。
そう考えると知識ってえらいです。で、それを「進級」などの強制力をもって植えつけさせようとするテストって、案外悪いやつじゃありません。
でも、そこで得た「知識」。
どこに使いますか? それがわからないと、それもまずいです。
だってせっかくめっちゃ勉強したのに、もったいないです。
え、いい高校、いい大学、いい就職できるからいいじゃん??
これ!これが悪い!!
テストは悪いやつじゃないけど、ここに行きついてしまうことが一番悪いです!!!
だからテストは本質的には要らないんです。大切なのは「知識を身につける」ことであって「そこで優劣をつける」ことではないから。
そりゃもちろん先生方、試験する側の方々にとぅては優劣をつけることも重要です。
テストに合格するには努力が要ります。「どうやってテストで良い点をとるか?」と考える力も要ります。
テストでいい点を取る人は間違いなく頭がいいです。
そして頭がいい人を入学させたい/採用したい学校や企業が、テストを受けさせるのは非常に納得できるやり方なんです。
ただ知識の使い方を知らないでテストに合格してしまうのが、もっともバツが悪いです。
学校、企業、そしてその人にとって、バツが悪い思いをします。
学校に入っても、やりたいことが見つからない。入りたいサークルが見つからない。話したい人がいない。欲しいものもない。
就職しても、とりあえず出世して結婚して子供を持って………。
おや?
まって、わたしってなんのために、あんなにテストがんばったんだっけ?
こうなったら本当につらいです。
せっかく頑張ったのにもったいないです。
頭が良くても、頑張っていても、人格的に周囲でいい人として通っていても。
だって知識を振るうべき知恵がないんです。
ここで本題。
知恵って「対象」なんですよ。
さっきの2問目の問題、思い出してくださいね。
答えのない、あいまいな、言ってしまえば意味のない問題です。
あの「対象」、あれって本当に意味がありません。
でも面白くないですか?
頭がいい、頭が悪い、なんてどうでもいいことです。考え方によりけり。知識なんて、知恵なんてない、すべてを捨て去って自然と融和した無為自然、悟りの境地、それこそが真なる良さ哉……なんてことも言えますが。
それが面白いなぁって私は思います。あくまで個人的な見解です。
でも、この個人的見解を述べて、いろんな人から反論や共感をもらいながら生きるのは、けっこう楽しいです。
テストでいい点とった優等生、悪い点の劣等生、みんな「知恵」という「対象」が必要なんです。
知識は知恵の泉を掘り当てるためのツルハシです。(なんか良さげなこと言えましたね!)
これタイトルにします。今決めました。
話、まだ続きます。
じゃあ知恵ってどうやって身につけたらええのん? って話です。
これは簡単です。
(はぁ? なんでテストなんて受けなきゃいけないの? バカじゃん?)
こんな気持ちを常日頃から持つことです。
あと、
(いや、こいつ逆説使って自分を賢く見せたいだけだろ笑)
という気持ちを常に持つことです。
あ、でも思うだけにしておいてください……。筆者はセンシティブマンなので、あなたの優しさで、そっと胸の内にしまっておいてください……。
いろいろと反感をもったり、それに納得したり、納得したけどやっぱり違うわってなること。それが「知恵」だと私は思います。
で、知恵には時間が要ります。
うーんうーんとあれやこれや思い悩むのは、そしてそこに答えを見つけたり、見つけた気になっていたと気付いたりするのには時間がめっちゃ必要だからです。
私自身もこれ書いていて、分かった気になっていますが、たぶん10年後くらいに「いや、違うだろ」ってなってます。
でもこうやってポヤポヤ考えていられるのは、一応それなりに頑張って浅薄ながら「知識」を持っているからだと思います。
こうやって記事書いているのも、日本語がある程度分かるからですものね!笑
こんな感じです。
結局なにが言いたいの? というと、
「勉強と遊びは両立した方がいいです!」ってことです。
それもいろんな勉強して、いろんな人やモノやコトと遊んだ方がいいです。
良いことも悪いことも勉強し、良い人悪い人問わず、面白い人やモノやコトと遊んだ方がいいです。
面白いって自分で考えることこそ、知恵だと思うので。
社会人ですけれど、私もいろいろやらないとですね。勉強して遊ぼうと思います。
こんな記事に時間を割いてくださった皆さん、ありがとうございました。
また時間見つけて書こうと思います。
ではでは。