哲学科があーでもないこーでもない

哲学科の学生が不勉強を猛省しながらごちゃごちゃ恋愛とか人間について書いています。

知識はツルハシ、知恵は泉ってお話

テストっていらないんです。実は。

 

小学生、中学生、高校生、大学生……そして社会人(テストをしむける先生も含め)みんな知ってます。テストなんかいらないって。

 

なんでかって大切なのは「知識」であって、それを試験するのは「知識」の有無と関係ないから。

 

って話を始めたんですが、実は今回はここから「でもやっぱりテストは必要よね〜」って結論に持っていきます。

 

社会人になって思うのですが、大人になってもテスト・試験って続きます。義務ではなくなるだけで、たとえば就職とか結婚とか出産とか、そういった諸々のうっすらした常識や生き方、スタンダードが試験的なものとして立ちはだかります。

 

ただ大人になってGoodなのは、これら試験を「まあ、やらんくてええんちゃう?」って言ってくれる人がいっぱい居ることです。

学生のうちは、大半の人が学校所属の人ですから「いや、とりあえずやっとけよ」ってなるんですが……。親御さんも先生も試験受けてくれないと進級できなくて困りますしね。

 

かくいう私は中学生まではいわゆる優等生で、高校生は中間層で、大学では超劣等生でした。

 

はい!

みなさん気付きましたね??

「優等生」「劣等生」

これですね〜〜。

テストの一番ダメなとこはここです!!!

 

テストの点数が良いのは優等でも劣等でもないのに、なぜかこの概念が広く知れ渡っています。

もちろんたいていの人は、そうではない! とわかっています。

 

でも「テストの点が良い=優等生」から、さらに「頭がいい」とか「知識がある」に傾くのは違う…いや、違わない?? あれれ?

となりませんか?

 

だって知識があるからテストが解けるわけです。

 

Q.1968年ノーベル文学賞を受賞した日本人は誰か?

 

A.川端康成

 

こんなふうに言えるのは知識があるから。知っているから解けるんです。

(ちなみにこれを書くさい、川端康成がいつノーベル文学賞を獲ったのか知らなかったのでGoogle先生に頼りました)

 

じゃあ知識があるってすごいんじゃん?

川端康成がいつノーベル文学賞獲ったか知らないおまえは劣等生じゃん??

 

いやまったくもってそうです……。

そうなんですよ、テストで問いを解くことができる=すごい。すごいんです。誇るべきことなんです。

じゃあ次の問いにいきましょう。

 

Q.上記の問題が解けた/解けなかったあなたは頭がいいですか?

 

答えはどうですか?

自分の能力に自信がある人は、堂々とイエス。謙虚な人はノー。

そしてどちらにしても言うでしょう「まあでも、頭の良さにもいろいろあるからね」。

 

そうなんです、いろいろあるんです。

そして今やってみた通り「テストできない問題」っていうのがあるんです。残念ながら。

川端康成がわかっても解けない問題はあります。

 

ここで「じゃあテストできない問題に対応する応用力、人間力を鍛えましょうね〜」って方向で収めることもできるんですが、

今日はもうちょっと面倒くさくいきます。

 

テストは知識を試すものです。まさに試験。

テストできない問題は、考える力を試します。知恵って表現できるかもしれないですね。

 

で、知恵には正解がありません。

知識には正誤がありますが。

 

でもたとえば上記の問題、ヘブライ語で書かれていたら読めますか? ちなみに私は読めないし書けません。これを書いている最中、頑張ってヘブライ語を調べて問題を翻訳してみようか……と血迷いましたが面倒すぎて無理でした。

 

ああ、わたしにヘブライ語の知識があれば……ヘブライ語の知識さえあれば、これを読んでいる人にちょっとは偉そうな顔ができるのに……。

 

こんな感じです。

この記事は全世界ネットワークにてアメリカの人フィリピンの人ロシアの人ブラジルの人、ありとあらゆる場所の人たちに公開されますが、基本的に日本語が読める人しか読めません。というかアクセスしません。日本語の知識がある人のみ辿りついて「ひまだし適当に読むか」となるわけです。

 

知識がないと「この記事に価値のあることがあるか、もしくはないか」すら分からないんですね。

 

うわ〜すごいバカげたこと書いてある〜!

うわ〜わからんでもないかも〜!

うわ〜何書いてあるか意味不明〜!

 

こんな感想すら持てないんです。

 

で、これって実は言葉に限らないです。

 

私は高校数学2A、100点満点中3点を叩き出しましたが、いまだに数学が美しいと感じる感性がわかりません。わかってみたいけれど、割り算もろくにできないので、どげんかせんといかん……となっている昨今。

 

ああ、ちゃんと数学やってればなぁ、と後悔しています。知りたい感覚にたどりつけないんです。知らないから。

 

そう考えると知識ってえらいです。で、それを「進級」などの強制力をもって植えつけさせようとするテストって、案外悪いやつじゃありません。

 

でも、そこで得た「知識」。

どこに使いますか? それがわからないと、それもまずいです。

だってせっかくめっちゃ勉強したのに、もったいないです。

 

え、いい高校、いい大学、いい就職できるからいいじゃん??

 

これ!これが悪い!!

テストは悪いやつじゃないけど、ここに行きついてしまうことが一番悪いです!!!

だからテストは本質的には要らないんです。大切なのは「知識を身につける」ことであって「そこで優劣をつける」ことではないから。

 

そりゃもちろん先生方、試験する側の方々にとぅては優劣をつけることも重要です。

テストに合格するには努力が要ります。「どうやってテストで良い点をとるか?」と考える力も要ります。

テストでいい点を取る人は間違いなく頭がいいです。

そして頭がいい人を入学させたい/採用したい学校や企業が、テストを受けさせるのは非常に納得できるやり方なんです。

 

ただ知識の使い方を知らないでテストに合格してしまうのが、もっともバツが悪いです。

学校、企業、そしてその人にとって、バツが悪い思いをします。

 

学校に入っても、やりたいことが見つからない。入りたいサークルが見つからない。話したい人がいない。欲しいものもない。

就職しても、とりあえず出世して結婚して子供を持って………。

 

おや? 

まって、わたしってなんのために、あんなにテストがんばったんだっけ?

 

こうなったら本当につらいです。

せっかく頑張ったのにもったいないです。

頭が良くても、頑張っていても、人格的に周囲でいい人として通っていても。

 

 

だって知識を振るうべき知恵がないんです。

 

 

ここで本題。

知恵って「対象」なんですよ。

さっきの2問目の問題、思い出してくださいね。

答えのない、あいまいな、言ってしまえば意味のない問題です。

 

あの「対象」、あれって本当に意味がありません。

でも面白くないですか?

頭がいい、頭が悪い、なんてどうでもいいことです。考え方によりけり。知識なんて、知恵なんてない、すべてを捨て去って自然と融和した無為自然、悟りの境地、それこそが真なる良さ哉……なんてことも言えますが。

 

それが面白いなぁって私は思います。あくまで個人的な見解です。

でも、この個人的見解を述べて、いろんな人から反論や共感をもらいながら生きるのは、けっこう楽しいです。

 

テストでいい点とった優等生、悪い点の劣等生、みんな「知恵」という「対象」が必要なんです。

知識は知恵の泉を掘り当てるためのツルハシです。(なんか良さげなこと言えましたね!)

これタイトルにします。今決めました。

 

話、まだ続きます。

じゃあ知恵ってどうやって身につけたらええのん? って話です。

 

これは簡単です。

 

(はぁ? なんでテストなんて受けなきゃいけないの? バカじゃん?)

 

こんな気持ちを常日頃から持つことです。

あと、

 

(いや、こいつ逆説使って自分を賢く見せたいだけだろ笑)

 

という気持ちを常に持つことです。

あ、でも思うだけにしておいてください……。筆者はセンシティブマンなので、あなたの優しさで、そっと胸の内にしまっておいてください……。

 

いろいろと反感をもったり、それに納得したり、納得したけどやっぱり違うわってなること。それが「知恵」だと私は思います。

 

で、知恵には時間が要ります。

うーんうーんとあれやこれや思い悩むのは、そしてそこに答えを見つけたり、見つけた気になっていたと気付いたりするのには時間がめっちゃ必要だからです。

私自身もこれ書いていて、分かった気になっていますが、たぶん10年後くらいに「いや、違うだろ」ってなってます。

 

でもこうやってポヤポヤ考えていられるのは、一応それなりに頑張って浅薄ながら「知識」を持っているからだと思います。

こうやって記事書いているのも、日本語がある程度分かるからですものね!笑

 

こんな感じです。

 

結局なにが言いたいの? というと、

「勉強と遊びは両立した方がいいです!」ってことです。

 

それもいろんな勉強して、いろんな人やモノやコトと遊んだ方がいいです。

良いことも悪いことも勉強し、良い人悪い人問わず、面白い人やモノやコトと遊んだ方がいいです。

面白いって自分で考えることこそ、知恵だと思うので。

 

 

社会人ですけれど、私もいろいろやらないとですね。勉強して遊ぼうと思います。

 

 

こんな記事に時間を割いてくださった皆さん、ありがとうございました。

また時間見つけて書こうと思います。

 

ではでは。

 

ボカロの曲はオペラに似ているって話

こんにちは。社会人です。

元号変わりましたね……!! 実感が湧きませんが、また元号が変わる時にそなえて、5月1日の新聞一面は保存しておきました笑

 

それはともかく、今回は最近の物語における『普遍性への嫌悪感』について考えたことを書こうかな〜と思っています。

 

なんでこんな記事を書こうと思い立ったか、といいますと。

実はVOCALOIDが関係しています。ボカロです。ボカロ。

 

私はVOCALOIDまみれで育ったのですが、

ふと『曲にストーリーをつけること』について考えました。

VOCALOIDはノベライズ化が多く、はじめはサラッと出された曲に後からストーリーがつく、みたいな過程が多いんですね。(作者の方は最初から構想していたのだと思います)

 

これって面白い現象です。言ってしまえば『歌詞』の部分において、オペラやミュージカルに近しいことをしているわけです。

 

音楽にかぎらず、どの分野においても『共感』

って大切ですよね。

 

これが、通常の音楽における共感では、

 

歌詞→わたし

 

の流れです。

 

ですがオペラ、ミュージカル、そしてVOCALOIDの一定の曲では

 

歌詞=ある登場人物→わたし

 

なんですね〜。

 

登場人物という『ある人物』のクッションを置いて、その人物への共感をもとに感情移入をはかるやり方だと思います。

 

このやり方の良い点は、まさに『我が事』にしづらい点にあるんですね。

 

たとえば、失恋をして、しんど……つら……むり……となっているときに、

 

バリバリの中島みゆきさん失恋ソングが聞きてぇ!! って人もいれば、

 

いや、心が折れるから無理。関係ない曲が聞きたい。

 

そんな人もいます。

逆に全然失恋どころか恋愛すらしてないぜ! と開きなおる私のような人間もいます。

 

後者二人にとって『登場人物への共感』は非常に楽です。やりやすいです。

なにが楽かって、実在しない人物には共感しやすいんです。

 

聞いてください。VOCALOIDも、その中にあるストーリーも大好きです。

話が膨らむ過程に面白さがありますし、伏線の張り方も音楽独特のやり方があってすてきです。

 

ただ不思議に思うのは、こういった形の曲がなぜあるのだろう? との疑問です。

 

そこでボケーッと考えた結論が、

『普遍性への嫌悪感』が現れているのでは?

との考えです。

 

 

嫌悪感って『なんとなく嫌』のことです。

 

『なんとなく』ってなによ?

と申しますと、私的には、

 

『なんとなく』≒『生理的に』≒『変えることは現時点では不可能』

だと考えています。

 

地球上のあまねく人々、過去も経験もちがうので、当然考えていることがちがいます。

そのせいで『なんとなく』が心のどんづまりにあって、抜け出せないのかな〜なんて思います。

 

これは『なんとなく』がダメ! ってことじゃなくて、

『なんとなく』は変えるのがすごく難しい……! ってことです。

 

(ジェネレーションギャップが良い代表例かな、と思います。年をとってから考え方を変えられる人は人間ができすぎています)

 

 

さて、それを踏まえて。

『普遍性への嫌悪感』=『普遍性って、なんとなく嫌』と読んでみてください。

 

普遍性って『すべての物事に通じる性質』

のことです。

 

『すべての物事に通じる性質って、なんとなく嫌』……?

 

え、日本って同調圧力強めじゃん?

え、みんな一緒でみんな良いの風潮じゃん?

 

 

そのように思われた、そこの貴方……

大正解です。

 

 

ここでちょっと話が変わるのですが、

『個性の重視』ってなんでしょう??

 

教育云々の話はとりあえず置いておいて

『私の個性』との話になったとき。

たいていは(堂々とはしていなくとも)話せると思います。

 

たとえば、

「わたしは〇〇県出身の〇〇です」

くらいは、大抵の人が言えるのではないでしょうか。

 

『他』と『じぶん』はちがう!

と大声で言えるだけで、十分に個性です。

 

でも実際は、ちょっとちがう捉え方をされていますよね。

 

たとえば、

「わたしは本を読むのが好きで、読書感想文は〇〇について書きました」

とか。

 

「わたしはインターハイ出場経験があり、〇〇社に新卒で入社しました。資格いっぱい持ってます」

とか。

 

「わたしはクィアで自分が男か女か分かりませんが、いまのところパートナーは女性です」

とか。

 

「わたしは〇〇党支持者ですが、家族は反対派なので大人しくしているんです」

とか。

 

下二つは、日常会話ではちょっと出づらいかもしれませんが……どれも尊ぶべき各々の特徴です。

だからといって、過剰に要求されなければならない『個性』ではありません。

 

『他』と『自分』を隔てるものは、必ずしも『少数派』であることとは異なります。

 

他の誰にもできないこと、なんて正直世の中にはないです。 

たいていの場合、そんなに異ならないです。

みんな本当は同じなのに、それにたいして『個性』を貼りつけているのでは……と思う次第です。

 

これは『少数派』の人々なんて居ないよ!無視しよ! と言っているのではなく、

 

大抵の問題は本質的に『普遍的』なのにも関わらず、『個性』の言葉に甘えて思考を止めているのでは?

 

と思ってしまったがゆえです。

 

たとえば。

 

県民性を語ることについての問いかけ。

読書習慣についての問いかけ。

成果主義についての問いかけ。

性自認、性志向についての問いかけ。

政治についての問いかけ。

 

個人個人の考え方、主義主張は大切です。侵害しちゃダメなものです。

その考え方が浸透しつつある現代は、まだまだこれから頑張らなくてはいけないにせよ、すばらしいと思います。

 

でも。

 

それって他人の問題でしょうか?

 

なんて不勉強ながら思います。

名前をつけられた『登場人物』ではなく「〇〇県在住の〇〇さん」が、そこに居るからです。

 

特別な力をもつ特別な人間にならない世の中で、そこに「ある人間」がいることを忘れないでいたいです。

 

なんて思った次第です。

再三ですが、VOCALOIDの曲は好きです。あとオペラも好きです。

ただ『個性』が重要視される理由は『普遍性』が元になっている! ってことを再確認したい。

そんな記事でした。

 

長々と書いてしまいましたが、ここまで読んでくださりありがとうございました!

また気が向いたら、よく分からないことを書くやもしれません!

哲学科の就活はキリキリマイ

こんにちは。このあいだ大学を卒業した元大学生です。

 

今回は就活について書きます。

 

就活。就職活動です。なぜ人は就職するのか?

人によって様々な理由があると思います。

 

もともとこのブログの立ち上げの発端は、就活が本当に本当に本当に本当に本当に本当につらかったことなんです。じつは。

 

他の記事を見ていただけるとお分かりになるかと思いますが、

就活の1番辛いところは『自己抑制』をしなくてはいけない点です。

LGBT現象学だ浮気だうんぬんかん……そういう会話からめちゃくちゃ遠ざかります。

 

愚痴になっちゃうのでこの辺で笑

 

この記事をご覧になられている方々が、最も気になるのは『哲学科って就活に不利なんじゃない?』との点ではないでしょうか。

 

結論 : 人によりけり

 

あ、記事閉じないでください!!

あたりまえじゃんって、そうなんですよ〜

あたりまえなんですよ〜!!

 

就活を経験して思ったのは、学科とかサークルとかバイトとか留学とか色々あるけれど、

結局は人それぞれ。人によりけり。

そんなことです。

 

哲学科が敬遠されそうな理由

『理屈っぽい』『めんどくさい』『なに考えているか分からない』

こんな感じでしょうか。

でも他の学科にもそういう人はいます。

 

哲学科に上記の特徴をもつ人間が、多く集まっているため、そのような色眼鏡があるのかなと思います。

 

でも色眼鏡はあくまで眼鏡です。

就活生側がちゃんとしていれば人事の方々も

きちんと見てくれているな……と私は感じました。

 

ただ私の場合は就活めちゃくちゃでした。

もうめちゃくちゃだよ! ってなもんです。

 

ただこれは私個人のスペックの低さに原因があります。

サークル無所属、ゼミ無し、留学なし、資格無し、ボランティア無し。

NASHIのオンパレードです。祭りです。

 

なので就活生有利! 選び放題! と新聞の紙面がにぎわうなか私は祈られ祈られ(もしかして私って神なのかな……)などと考えていました。

 

面接にも問題がありました。

業界知識不足。製品の知識不足。やる気不足。

FUSOKUのオンパレードです。ルンバです。

 

やけになってブログを始めました。

 

それでもなんとか内定を頂けました。

 

NASHI&FUSOKU の 哲学科がなぜ内定をゲットできたのか?

 

 

運です。偶然です。ディスティニーアンドフェイト。

 

 

ようは自分にピタリと合う企業が見つかるまで就活したってことです。

ありがたくも内定をくれた企業は、説明会の時点で、

(あ、この人たち私と気が合うな……!)

とのインスピレーションがありました。

 

そのビビビッと来たものに従って、面接の練習や準備を初めてちゃんとやりました。

そしてそれが幸を為しました。

 

なにが言いたいかというと、ないない尽くしの哲学科でも内定が頂けたので、

このご時世(就活生有利の状態がつづけば!)なら諦めなければ内定への道が見つかると思います。

 

哲学科の1番のネックは『なぜやるか』『どこにむかってやるか』をきちんと認識しないとやる気が出ない点にあると思います。

おそらく他学科よりもその点に注目する人が多いと思うので。

 

わたしは就活を始めた時点で

(ブラック以外、できればホワイト企業)

との目標しかなかったので、ふらふらふらふらし続けていました。

 

なのでこれから就活される方々(哲学科以外でも)は、そこをハッキリさせておくと地獄を見ずにすみます。

 

でもこれだけ書いたんですけれど、

べつに就職しなくても良いと私は思います。

 

世の中って本当にいろんな人がいます。

 

派遣で仕事しながら世界を旅する人。

アルバイト生活で、いつかは専業主婦と思っている人。

フリーランスで働いていて起業したいと思っている人。

働いていない人もいます。

働いていないけれど、これから働かなきゃなあ……みたいに悩んでいる人もいます。

べつに働かなくてもいっか! という人もいます。

 

ただ目標があって、それを叶えるために哲学科で勉強がしたい。就職がしたい。お金を稼ぎたい。安定したい……そんな思いがあるならば、就活という戦場に挑むのも選択肢のひとつだと思います。

 

こんな偉そうなことを書ける身分ではないのですが、最低スペックの大学生でも内定が得られるよ! という希望にはなれたでしょうか。

 

哲学科はいい人がいっぱい居ます。

人生の訓示なんていうと大袈裟ですが、私は友達もいないし大学に思い入れもないですが、哲学科に入る選択肢をとって正解でした。 

 

人生が変わったと思う瞬間や言葉に多く出会いました。それだけで間違っていなかったと胸を張れます。

 

だからこれから哲学科に行こうかな? と思っている人がいるならば、ぜひ好奇心のままに赴いてほしいです。

きっと皆様であれば、底辺大学生の私よりもずーっとずーっと素敵な発見ができると思います。

 

就活きつそう……とかそんなこと気にしないでください!

どの学科も就活はカオスなので!笑

 

この記事だとオープンすぎて具体的なことが話せないので、もし気になることがあればTwitterのDMでもなんでもお気軽に聞いてください。

お役に立てることがあれば、できるかぎりお答えします。

 

就活を機にはじめたこのブログですが、全然更新してないので閉じよう……とは思っていません。思ってないんです。まさかの。

 

自由に好きなだけ発信できるのはインターネットの怖さであり強みだと思います。

それこそ劇の感想とか書いても、誰にも怒られないですみます笑

 

なのでこの場所は残しておこうかなと思っています。気まぐれ更新ですが、もしお時間あれば目を通してくれると大変嬉しく思います。

 

長文でしたが、ここまで読んでくださりありがとうございました!!

もう大学生じゃないですね! どうしよう笑 次からは社会人ですって名乗ります!

物語はだれのために書かれるのか?

こんにちは。

始まってもいなかったクリスマスに別れを告げた私です。

 

この間、こんなアンケートをとりました。

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結果の偏りがやばかったです。

 

『自分のため』が97%ってすごいですよね。地球における海の割合が約70%なので、web小説界隈では日本沈没どころかイタリア半島を残して全世界沈没してますね。イタリア半島が3%って大きすぎですかね。

 

イタリア半島、もとい『他人のため』に小説を書く人は、この結果をどう思うんでしょうか。気になるところですが、ここで本題に入りたいと思います。

 

ずばり物語はだれのために書かれるのか?

という問題です。

 

上記のアンケート(母数が少ないので正確なデータとは言えませんが、手元にある生きたデータなのでこれを元に書きます。すみません)を参照すると、少なくとも『物語の作り手』の大半はは『自分のため』と考えているようです。

 

チョロっと思いついた理由を並べてみます。

 

・自分の好きな登場人物を動かすため

・書くのが楽しいため

・物語を考えるのが好きなため

・承認欲求を満たすため

 

上記の理由のどれかかなぁと思うのですが、いかがでしょうか??

他の理由がある方は教えて下さると幸いです。

 

私自身をかえりみても、そうかもしれません。

 

うひゃあー面白い物語おもいついた! 書こ! ウワーッタノシイ! メッチャタノシイ! アラ、カキオエチャッタ!

 

こんな感じです。嘘です。

実際はもっと悩んでます。

 

書いている途中で

(うわ、これ矛盾だらけだ)

(うわ、これ登場人物あかんこと言ってる)

(うわ、もしかしてこれ駄作じゃないか?)とか思いますよね? 

 

楽しいだけの作業ではありません。もしかするとひたすら楽しい人もいるのかもしれませんが、大体の人は何らかの苦労をもって物語を書くと思います。

 

そう考えると理由の上3つは若干雲行きが怪しいですよね。

次の楽しい瞬間のために苦労して物語を進める、という感覚もあって然るべきですが、もしそれが完全に通用するならマゾヒズムもいい所だと思います。(すみません)

世の中娯楽で溢れかえっているのに、そんなことをしてまで物語を作る楽しさに執着する必要がないからです。

 

では、承認欲求はどうでしょうか。

物語を書くのが承認欲求の元に行われるのならば、納得がいきます。

『誰かに認めてもらいたい』というアイデンティティの肯定は、表現活動と切っても切り離せない関係にあるからです。

 

じゃあこれでこの議題は終わり。さっさと次の話に進めやいざ行かん……といきたいのですが、そうも行きません。

 

もし承認欲求を満たすためだけに物語を書いているのなら、あまりにも悲惨です。なぜならある程度きちんとした物語を作るには、途方もない時間と労力が必要だからです。

時は大SNS時代、海賊王にはなれなくても誰でもプチインフルエンサーになれます。

ちょいと過激なことをネットの海で叫べば、誰もが寄ってたかって祭り上げて燃えたり鎮火したり再炎上したりします。

 

そういう時代に文章ですか? 物語ですか?

承認欲求を満たす方法は、それこそ腐るほどあるのに?

物語を作ることは確かに満たされる方法の一つですが、どちらかというと承認欲求をブーストさせる作用の方が強いような気がします。あくまで気がするだけですが。

 

先ほど並べた4つの『自分のため』に書く理由は、どれも正しいのかなぁとは思います。(もちろん個人差はありますが)

ですが、真実そのものではないと思います。

本当に自分のためだけに書いているのならば、筆をとることはない、と私は思います。

 

なぜでしょうか。

それは『物語』の本質に『共有』という側面があるからです。

 

ちょっと話がそれます。

『面白く魅力的な物語を書くためにはどうしたらよいか?』と聞くと、

多くの物書きさん達は『自分の面白いと思うものを書け。それがいつか読者に伝わる』と話します。

 

これって変な話です。

作者と読者は違う人間です。縁もゆかりも無い、背景も思想も宗教も違う人間です。

なのに、なぜ伝わると分かるのでしょうか?

そしてなぜ、実際に伝わってしまうのでしょうか?

 

自分が面白いと思うものが、なぜ他人にとっても面白いと思えるのか。

それは作者側/読者側、双方から物語に期待しているものがあるからです。

 

例えば、主人公に『試合で勝ってほしい』と作者が願い、その通りに書きます。

読者は必ずしもそう思いません。その主人公がいけ好かない奴だと感じていれば『試合に負けろ』と思います。

この場合、お互いの期待がすれ違い、物語は結果として読者にとって面白くないものになります。

 

作者はどうするべきでしょうか? こう読者に思われないために、主人公が『試合で成功するに相応しい人物』であることを示すでしょう。

苦労した過程を描写し、好人物であることを表すでしょう。

 

ひとつ補足しておくと、これは作者が読者におもねるわけではありません。

読者と自分が期待する物語のために、正しい道筋をたてる、ということです。

 

まとめると、

作者が自分にとって『面白い物語』を作るためには『読者』の目が必要不可欠なんです。

 

『読者』とは、ある意味では物語における審判です。制約です。思い通りにいかせてくれない存在です。

そういう手に余るものを相手取ることで、物語は物語として機能します。

つまり、より素晴らしい物語になろうと『物語それ自体』が努力し始めるんです。

 

作者は努力をしません。書くだけです。読者も努力をしません。読むだけです。

 

ただ双方が物語に『期待』をするために、物語それ自体がコミュニケーションを媒介する機能として動き始めるんです。

 

めっちゃ難しい話になってきた気がします。

私も混乱してきました。

 

言いたいことはひとつです。

どんな物語でも『自分のため』にだけ書かれることはありません。

言葉の本質的なベクトルは世界に向けて飛び出ていて、それを用いる物語は他者無しに存在しえないからです。

 

こんなことをポロポロ考えた年末です。

他人のために、なんて言うと偽善っぽいですが、他人のために行うことはすべて自分のためでもあるので、こんなことを考えてもあんまり意味はないです。

でも気になったので、なんとなく書いてみました。

 

最後に私の大学の先生が言った言葉をひとつ。

『物語は人間しかつくらない』

です。

終わりのない世界に終わりを作ろうとする行為が物語、だそうです。難しいことを言う先生です。でも大好きでした。

 

ここまで読んでくださってありがとうございました。

またボチボチ更新しますね。

 

LGBTって言葉

こんにちは。秋めいてきて、今更将来に対する不安が募る大学生です。

 

新潮社のあーだこうだが話題になっていますね……。

ハフポストの記事なんかをLINEでよく拝見するのですが、当事者の方には不愉快極まりないを通り越して「なんだこの前時代の遺物は…」という驚愕と呆れがあるのではないかと推察する次第です。

 

話変わって、最近『ブリジット・ジョーンズの日記』を読んだのですが、その中にトムというゲイの男性が登場します。

彼は主人公ブリジットのとても優しい友達で「三十代未婚女性とゲイの男性には不屈の友情がある」と述べるのですね。

原作は1996年に書かれたものなので、今よりももっとプロトタイプから外れた人達への当たりが強かったのだと思います。

 

それにしても、22年前の小説でもゲイの男性が居ることは当たり前として受け入れられているのに、2018年現代の日本でああいった記事が表に出てしまう事にはびっくりしますよね……。

 

もっと言えば、ローマでは綺麗な少年を買うことは当たり前だったし、日本でも仮面の告白だなんだってメジャーではないセクシャリティの在り方について存在がどうのこうの言う前に、周知の事実だったわけです。

 

それに対して、最近LGBT運動の盛り上がり(当事者にとっては不愉快な言い回しかもしれません…申し訳ないです)に反発してか、

そういった問題に言及する人達の意見を主にネット界隈で見受けますね。

 

私個人の意見としては、セクシャリティの問題は『個人の問題』です。私が哲学科に入学するまでには様々な個人の問題がありましたが、それと種類は同じだと思います。

個人にとっては重く、社会にとっては軽いんです。

 

(不愉快にさせた方がいたら、本当に申し訳ないです。個人の問題だから社会で取り上げるべきではない、という事ではなく、本質的に個人の問題である、という事を強調したいがための表現だとご理解ください)

 

ただこの非常に個人的問題は時として共有されるタイミングが必要で、それが個人に対して良い影響があったらどんどん取り上げるべきなんです。

ただ、果てしなく個人的な問題であるが為に、社会の決定的な対策というものが望みづらい領域です。

 

しかしこの問題がやっとこさ、日本の企業に認知され始めてきました。LGBT市場、というやつですね。ニッチであったがために、注目のされ方も激しかったのかもしれません。

あまりビジネスの事は詳しくないのですが、これは当事者、企業たちにとって良いことなんだろうと感じます。

 

ただ、お金の問題が絡むと出てくるのが「偉い人」です。偉い人はきっと偉いんだと思います。アホっぽい言い回ししか出来なくてすみません。偉い人は、多分一所懸命に働いてきた人で、経済を回そうと努力してる人なんです。多分。

 

でも、偉い人は悲しいかな、自分が居ないもっと未来の人達のことは考えてくれません。

 

自分が頑張ってきた時代の倫理観(正確に言うと、その人の周りにいた人達の倫理観ですね)にしか、すがれないんです。

だって、そうでもしないと自分の居場所が無くなっちゃうような不安に駆られるから。

今更否定できないんでしょうね。多分。

 

違和感はもちろんあるんです。

だって最近の流れってLGBTという言葉で祭り上げてるみたいで、元々居た人達がそこに居ることを、まるで『承認してあげている』みたいに見えてしまいます。

何様なんだろう……って気持ちになってしまいます。

でも、これは今まさに悩んでいる方達にとっては、要らん反論なんだろうなぁとも思います。

 

私が30代、40代…となっていく過程で、時間ぐすりが効いてきて、誰にとってもより良い時代が来ると思います。

 

そのとき、おっちゃん/おばちゃんになった私の前に『理解できない価値観』が現れた時のことを考えます。

(たとえば、自転車と結婚する手続きが取れるようになるとか、頭の上にアヒルのおまるを載せるのが流行るとか…)

もしかしたら、現段階でそういう価値観もいるのかもしれません。

そういう方達にとっては、今の私は「なんだこの前時代のバカは」と考えて、ミジンコ並みの脳みそを放置してやってほしいです。

 

その時、私が理解できなくても、そういう価値観を持っている老若男女の人達を傷つけることないよう、精進しなくてはと思います。

 

ふと思いついたことでしたが、久しぶりに書いてみました。不愉快に思われた方がいたら申し訳ありません。もし思うところあったら、コメント頂けると幸いです。

 

【感想】マクガワン・トリロジー 【ネタバレ】

こんにちは。人生で一番暑い平成最後を過ごしている大学生です。

 

今回は昨日観劇した舞台『マクガワン・トリロジー』について書きたいと思います。

 

え、これって哲学科についてミトコンドリアがぐだぐだ書くブログじゃないの?

え、そもそもお前ここ1ヶ月くらい更新してなかったけど、やる気あんの??

 

おっしゃる通りです。私、サボってました。

ここ1ヶ月は暑さにかまけて、クーラーをつけては寒くなって切り、暑くなってはクーラーをつけ……のエンドレスエイトでした。まだ7月ですけど。

 

ただ言い訳させてください。このマクガワントリロジーって舞台、ヤバいんですよ。

何がヤバいかって、めっちゃ面白いんです。

めっちゃ面白いのに、webに感想がほとんど載ってないんです。

 

せっかく意見を書ける場所があるので、じゃあ書いてみようと思い立ったのが、

哲学科ブログで舞台の感想を書く理由です。

(軸がぶれている、とは言わない言わない)

 

とりあえず、あらすじを説明します。

説明しようかと思ったのですが、ホームページに載っているストーリーがあまりに明確でしたので、それをコピペして貼っておきます。

(webページも貼っておきますので、興味があればぜひぜひ)

 

以下、あらすじ引用

 

IRAアイルランド共和軍の内務保安部長、ヴィクター・マクガワン。彼はその冷酷さから、組織の殺人マシーンとして出世してきた。
1984年、ベルファストのバーにて、ヴィクターはIRAメンバーであるアハーンが敵に情報を漏らした疑いをもち、探りを入れる。尋問は、司令官のペンダー、バーテンダーを巻き込んで、エスカレートしていき……。
'85年、メイヨー州の湖畔。ヴィクターは車のトランクから一人の女を連れ出してくる。女は彼の幼馴染であった。彼女が一体何をしたというのか、彼は彼女を手に掛けるため、二人の故郷であるこの湖を処刑場に選んだのだった……。
'86年、ゴールウェイ州の老人施設で、ヴィクターは母親と対面する。痴呆の母は、ヴィクターを夫やほかの兄弟と間違え、乱暴者のヴィクターは大嫌いだったと話す。母の言葉に苛立ちを募らせるヴィクターだが、やがて母は彼にある事実を告げ……。
――これは、ヴィクター・マクガワンの暴力性と悲哀に満ちた3年の歳月と、暴力が彼自身をも壊していく過程を、三部に渡って辿る“悲劇”である――。

 

http://www.mcgowantrilogy.com/introduction.html

 

こんな感じです。

まあ、でもこんなのはどうでもいいんです。(どうでもはよくない)

重要なのは、この劇にある【普遍性】の話なんですよね。

以下、ネタバレと感想です。

 

パンフレットにも記載されていましたが、

この舞台はとっても難しい背景を持つと同時に、

アイルランドの青年うんぬん、テロうんぬんを超越した、人間の普遍的な性質について描かれていると考えられます。

 

主人公のヴィクターは殺人マシーンと恐れられる怪物のような男で、第1部ではそのおぞましい才能を遺憾無く発揮しますが、第2部、第3部では人間味のある面を見せます。

 

第1部が上映されてから、第2部、第3部が作られた今作ですが、一貫してどんな人間にも存在している暴力性と、それを生み出すある種の出来事、トラウマ。

そしてどんな人間だったとしても、私たちと何ら変わりない心を持つ。

 

という事を描いています。

 

1部において、ヴィクターは不愉快である、気に触る、そんな気まぐれで舞台上の全員を撃ち殺します。

こんな非道なこと、人間の所業ではない……そんな風に思われる人もいるかと思います。

実際に世間では、ニュースで残虐なことを目撃すると『非人間的』だとか『信じられない』なんて感想が行き交いますね。

 

それを否定していくのが第2部、第3部なんです。

 

第2部では、ヴィクターは幼馴染でかつて好意を寄せていた女性を殺すことになります。

その時の葛藤も勿論、女性が明かす過去のヴィクター像は現代日本に居る私たちに重く響く内容となっています。

 

アウトローで、教会から追い出され、普通の男の子のような態度をとることが出来なかった過去のヴィクターは、

女性に「なにかを証明しようとし続けている」と内面を見破られていました。

しかしヴィクターはすました顔で「そうかもね」と応えます。過去は過去でしかない、と自分を納得させているのです。

 

このヴィクターの孤独な内面性や、承認に飢えた過去、そして大人になってもそれを押し隠そうとする態度は、ある種の共感を呼びます。

 

実際に女性を撃ち殺す前のヴィクターはためらい、銃を一旦は降ろすのですが、次の瞬間なにかに突き動かされるように、彼女を撃ち殺します。

この『なにか』とはヴィクターが幼い頃から抱える孤独であり、認められたいと思う気持ちであり、そして自分を証明しなければならないという強迫観念にも似た生きる意義なのです。

 

そして第3部で、ヴィクターは自分のトラウマと向き合います。

舞台上で描かれている彼のトラウマは『母親』です。母親が自分を2階から投げ落としたこと……これが彼女がヴィクターにした仕打ちの代表として観客に提示されますが、第1部第2部でもヴィクター自身の口から母親の名前が飛び出ます。

まるでティーンエイジャーが親のことについて疎ましげに、でも気にはなりつつ話すように、彼は母親のことが心のどこかで振り切れていないのです。

 

ヴィクターは痴呆症になって、もう自分のことを分からなくなってしまった母親と延々話し続けます。寒がれば上着を着せてやり、布団をかけてやります。

あっちこっちに飛んだり繰り返される話を、苛立ちながらも辛抱強く聞き、自分の名前が出る度に興味津々に身を乗り出します。

 

第1部では叔父を思って自分に銃口を向けたバーテンダーを撃ち殺したのに、第3部では母親に対して理想の息子のように振る舞うのです。もう自分のことなんて、母親は分からないのに。

 

ここに、ヴィクターの悲しさがあると思います。

ヴィクターはずっと心の底では母親に認められたい、愛されたいと思い続けていました。そして、それと同時にそう思ってしまう自身を恥じ、振り切ろうとしていました。

 

大人になり、それは暴力によって成される自己実現という形で成功したかのように見えました。

しかし第2部で女性に指摘されるように、ヴィクター自身はそれでも何かを証明しないといけないという強迫観念に追われています。

 

第3部でヴィクターは様々な知りたくなかった事実を知ります。

自分のミドルネームの本当の意味。

母親がヴィクターを2階から投げ落としたことに対する事実認識の齟齬と、それをもう確かめられないこと。

そしてヴィクターを持て余す一方で、ちゃんと彼自身を見ていたこと。そして、母親の影響をしっかりと受け継いだ自分自身が今病室に立っているということ。

 

それらは痴呆になってしまった母親を通して、証明が要らない事実であるとヴィクターが掴めた物事であるかのように感じられます。

 

そして最後のシーン、

彼岸へと旅立つ母親が穏やかな気持ちであれと願うヴィクターの姿には、

ただただ平凡で、母親とすれ違いながらも肉親の情を捨てきれなかった青年の面影があります。

 

感極まりすぎて上手く書けていませんが、

この作品は

人間性の普遍』について考えるきっかけになると思います。

 

当時のカルチャーや歴史的背景に基づく生きた言葉が行き交う劇なので、

私自身も正しく全てを理解したとはとても言い難いです。

ただ常に流れ続けるパンク・ロック、暴力と悲哀に満ちたヴィクターの生き様、厳選された登場人物たちの叙情的かつ愛おしい台詞の数々、その全てが最後のシーンに繋がっていき、

素晴らしいラストを迎えます。

 

人間の善と悪について考察し出すと、ウゲーッてひっくり返りたくなるほど考察が大変なのですが、

その点この舞台を観に行くと「あ、ハーン。なるほど、こんな悪者にも良い面があるんだナ」となって、

善悪が単なる相反ではないことが分かる!

ような気がします。気がするだけ。

 

なんにせよ観に行って良かったです。

興味出たって人は、数少ないですがこれからまだ公演があるみたいなので是非是非。

私もお代わりを観に行きたいですが、金欠なのでDVD化されることを祈ります……。

 

次回からは(といっても何時になるか分かりませんが)ちゃんと哲学科っぽいことを書くかもしれません。嘘かもしれません。

 

ご感想、ご意見、ご批判、今年の猛暑を哲学科的に乗り越える秘策が知りたい、等々コメントしてくださるとヴィクターのように踊りだします。

優しい象はニトログリセリンの夢を見るか?

こんにちは。

辛いものを食べると100%お腹を壊す大学生です。

 

Twitterで『あなたは優しいのか冷たいのか』というハッシュタグを見かけました。

 

モテる必須条件ですよね、優しさって。

「好きなタイプ? えー、優しい人かな」

などなど、巷のイカしたボーイ&ガールが言うわけです。

 

優しさってなんやねん。

 

以下、優しい行動と思われる例です。

 

・道でお年寄りの持ち物を持ってあげる

・道を教えてあげる

・道で落し物を拾ってあげる

・道で唐突にモブフラッシュが始まっても、苦笑せずに楽しそうな顔をしてあげる

・道で唐突にモブフラッシュが始まってプロポーズ大作戦が始まったとしても、憎しみに呑まれないで楽しそうな顔をしてあげる

 

少々ふざけましたが、

大体の『優しい行動』とは、

その個人の意思にそぐわなかったり、目に見える利益が無かったしても、他者をおもんばかる行動であること。

がポイントになるかと思います。

 

じゃあ、優しくない人ってどんな人でしょう?

他者をおもんばからない人ですか?

おばあちゃんの持ち物を持ってあげない人ですか? 道を教えてあげない人ですか? 落し物拾ってあげない人ですか?

モブフラッシュにしかめつらしている人ですか?

 

なんだか例えが悪い気がしてきましたが、

正直上記の行動をしようがしまいが、

『優しくない』レッテルを貼られる必要はないと思います。

 

『優しい行動』と『優しい人』って異なります。

 

私は心理学部ではなく哲学科なので、

ここで「利己主義から真に逃れることは不可能」なんてことは言えません。

 

ある優しい行動が自身の満足感につながるから、その行動は利己的なのである…

と言えば簡単な気はします。

 

でも、利己的ではない=優しい行動、人物

ではありませんよね?

 

優しさってなんだらほいって話ですよ。

相対的な概念……仰る通りです。哲学的に考察しろよ、このダンゴムシ……仰る通りです。

そんなのどうでもいいわい……ちょっと待ってください。

 

優しさの本質、それは人間の中にあるものではありません。

私たちはある人物、生物に『優しい』と評価を下す時、

その人物の内面なんてちーっとも見ていないからです。

 

あくまで『評価』に過ぎないんです。

優しさって性質として付与されるものではなくある関係性において、相互に行き来しあうものなんです。

 

つまり相対的なんでしょ?

おまえ、前の記事と言ってることちゃうやんけ。

 

ツッコミごもっともです。

優しさの本質が『評価する/される』ものであるのだとするなら、それは非常に相対的です。

 

ただ、この相対的であるということを逆手に取るならば、

じゃあ結局優しさって何よ? と聞かれた時に

『他人を評価しないこと』という答えがあげられます。

 

個人の評価で、優しいだの優しくないだのと言い合うことは『優しい』ことですか?

 

道で老人の持ち物を持たなかった人、案内しない人、モブフラッシュにクスリともしない人、世の中優しくない人で溢れているのでしょうか。

 

実際、大抵の人って親切ですよね。

ただ親切にするだけの時間や、お金や、その他様々な余裕がないだけだと思います。

これもまた、一方的な評価なんですけどね。

 

ということで、

世の中の紳士淑女は「優しい人」なんて世の中に存在しないと心に刻み、

私と共にワンマンスーパーライフを謳歌しましょう。

 

タイトルの意味は、今や死語となった「リア充爆発しろ」をオシャレに言おうと試みたBLEACH的お遊びです。

 

爆発するのはお前の方だ!

と苛立ちあらわにコメントしてくださると、

泣いて喜びます。

 

ここまで読んでくださってありがとうございました!