【感想】マクガワン・トリロジー 【ネタバレ】
こんにちは。人生で一番暑い平成最後を過ごしている大学生です。
今回は昨日観劇した舞台『マクガワン・トリロジー』について書きたいと思います。
え、これって哲学科についてミトコンドリアがぐだぐだ書くブログじゃないの?
え、そもそもお前ここ1ヶ月くらい更新してなかったけど、やる気あんの??
おっしゃる通りです。私、サボってました。
ここ1ヶ月は暑さにかまけて、クーラーをつけては寒くなって切り、暑くなってはクーラーをつけ……のエンドレスエイトでした。まだ7月ですけど。
ただ言い訳させてください。このマクガワントリロジーって舞台、ヤバいんですよ。
何がヤバいかって、めっちゃ面白いんです。
めっちゃ面白いのに、webに感想がほとんど載ってないんです。
せっかく意見を書ける場所があるので、じゃあ書いてみようと思い立ったのが、
哲学科ブログで舞台の感想を書く理由です。
(軸がぶれている、とは言わない言わない)
とりあえず、あらすじを説明します。
説明しようかと思ったのですが、ホームページに載っているストーリーがあまりに明確でしたので、それをコピペして貼っておきます。
(webページも貼っておきますので、興味があればぜひぜひ)
以下、あらすじ引用
IRA=アイルランド共和軍の内務保安部長、ヴィクター・マクガワン。彼はその冷酷さから、組織の殺人マシーンとして出世してきた。
1984年、ベルファストのバーにて、ヴィクターはIRAメンバーであるアハーンが敵に情報を漏らした疑いをもち、探りを入れる。尋問は、司令官のペンダー、バーテンダーを巻き込んで、エスカレートしていき……。
'85年、メイヨー州の湖畔。ヴィクターは車のトランクから一人の女を連れ出してくる。女は彼の幼馴染であった。彼女が一体何をしたというのか、彼は彼女を手に掛けるため、二人の故郷であるこの湖を処刑場に選んだのだった……。
'86年、ゴールウェイ州の老人施設で、ヴィクターは母親と対面する。痴呆の母は、ヴィクターを夫やほかの兄弟と間違え、乱暴者のヴィクターは大嫌いだったと話す。母の言葉に苛立ちを募らせるヴィクターだが、やがて母は彼にある事実を告げ……。
――これは、ヴィクター・マクガワンの暴力性と悲哀に満ちた3年の歳月と、暴力が彼自身をも壊していく過程を、三部に渡って辿る“悲劇”である――。
http://www.mcgowantrilogy.com/introduction.html
こんな感じです。
まあ、でもこんなのはどうでもいいんです。(どうでもはよくない)
重要なのは、この劇にある【普遍性】の話なんですよね。
以下、ネタバレと感想です。
パンフレットにも記載されていましたが、
この舞台はとっても難しい背景を持つと同時に、
アイルランドの青年うんぬん、テロうんぬんを超越した、人間の普遍的な性質について描かれていると考えられます。
主人公のヴィクターは殺人マシーンと恐れられる怪物のような男で、第1部ではそのおぞましい才能を遺憾無く発揮しますが、第2部、第3部では人間味のある面を見せます。
第1部が上映されてから、第2部、第3部が作られた今作ですが、一貫してどんな人間にも存在している暴力性と、それを生み出すある種の出来事、トラウマ。
そしてどんな人間だったとしても、私たちと何ら変わりない心を持つ。
という事を描いています。
1部において、ヴィクターは不愉快である、気に触る、そんな気まぐれで舞台上の全員を撃ち殺します。
こんな非道なこと、人間の所業ではない……そんな風に思われる人もいるかと思います。
実際に世間では、ニュースで残虐なことを目撃すると『非人間的』だとか『信じられない』なんて感想が行き交いますね。
それを否定していくのが第2部、第3部なんです。
第2部では、ヴィクターは幼馴染でかつて好意を寄せていた女性を殺すことになります。
その時の葛藤も勿論、女性が明かす過去のヴィクター像は現代日本に居る私たちに重く響く内容となっています。
アウトローで、教会から追い出され、普通の男の子のような態度をとることが出来なかった過去のヴィクターは、
女性に「なにかを証明しようとし続けている」と内面を見破られていました。
しかしヴィクターはすました顔で「そうかもね」と応えます。過去は過去でしかない、と自分を納得させているのです。
このヴィクターの孤独な内面性や、承認に飢えた過去、そして大人になってもそれを押し隠そうとする態度は、ある種の共感を呼びます。
実際に女性を撃ち殺す前のヴィクターはためらい、銃を一旦は降ろすのですが、次の瞬間なにかに突き動かされるように、彼女を撃ち殺します。
この『なにか』とはヴィクターが幼い頃から抱える孤独であり、認められたいと思う気持ちであり、そして自分を証明しなければならないという強迫観念にも似た生きる意義なのです。
そして第3部で、ヴィクターは自分のトラウマと向き合います。
舞台上で描かれている彼のトラウマは『母親』です。母親が自分を2階から投げ落としたこと……これが彼女がヴィクターにした仕打ちの代表として観客に提示されますが、第1部第2部でもヴィクター自身の口から母親の名前が飛び出ます。
まるでティーンエイジャーが親のことについて疎ましげに、でも気にはなりつつ話すように、彼は母親のことが心のどこかで振り切れていないのです。
ヴィクターは痴呆症になって、もう自分のことを分からなくなってしまった母親と延々話し続けます。寒がれば上着を着せてやり、布団をかけてやります。
あっちこっちに飛んだり繰り返される話を、苛立ちながらも辛抱強く聞き、自分の名前が出る度に興味津々に身を乗り出します。
第1部では叔父を思って自分に銃口を向けたバーテンダーを撃ち殺したのに、第3部では母親に対して理想の息子のように振る舞うのです。もう自分のことなんて、母親は分からないのに。
ここに、ヴィクターの悲しさがあると思います。
ヴィクターはずっと心の底では母親に認められたい、愛されたいと思い続けていました。そして、それと同時にそう思ってしまう自身を恥じ、振り切ろうとしていました。
大人になり、それは暴力によって成される自己実現という形で成功したかのように見えました。
しかし第2部で女性に指摘されるように、ヴィクター自身はそれでも何かを証明しないといけないという強迫観念に追われています。
第3部でヴィクターは様々な知りたくなかった事実を知ります。
自分のミドルネームの本当の意味。
母親がヴィクターを2階から投げ落としたことに対する事実認識の齟齬と、それをもう確かめられないこと。
そしてヴィクターを持て余す一方で、ちゃんと彼自身を見ていたこと。そして、母親の影響をしっかりと受け継いだ自分自身が今病室に立っているということ。
それらは痴呆になってしまった母親を通して、証明が要らない事実であるとヴィクターが掴めた物事であるかのように感じられます。
そして最後のシーン、
彼岸へと旅立つ母親が穏やかな気持ちであれと願うヴィクターの姿には、
ただただ平凡で、母親とすれ違いながらも肉親の情を捨てきれなかった青年の面影があります。
感極まりすぎて上手く書けていませんが、
この作品は
『人間性の普遍』について考えるきっかけになると思います。
当時のカルチャーや歴史的背景に基づく生きた言葉が行き交う劇なので、
私自身も正しく全てを理解したとはとても言い難いです。
ただ常に流れ続けるパンク・ロック、暴力と悲哀に満ちたヴィクターの生き様、厳選された登場人物たちの叙情的かつ愛おしい台詞の数々、その全てが最後のシーンに繋がっていき、
素晴らしいラストを迎えます。
人間の善と悪について考察し出すと、ウゲーッてひっくり返りたくなるほど考察が大変なのですが、
その点この舞台を観に行くと「あ、ハーン。なるほど、こんな悪者にも良い面があるんだナ」となって、
善悪が単なる相反ではないことが分かる!
ような気がします。気がするだけ。
なんにせよ観に行って良かったです。
興味出たって人は、数少ないですがこれからまだ公演があるみたいなので是非是非。
私もお代わりを観に行きたいですが、金欠なのでDVD化されることを祈ります……。
次回からは(といっても何時になるか分かりませんが)ちゃんと哲学科っぽいことを書くかもしれません。嘘かもしれません。
ご感想、ご意見、ご批判、今年の猛暑を哲学科的に乗り越える秘策が知りたい、等々コメントしてくださるとヴィクターのように踊りだします。