【相対主義】哲科1年生。初めての啓示を受けるの巻。
こんにちは。
お昼ご飯は100円前後のカップラーメンに限る大学生です。
実は私、quizknock という東京大学のクイズ研究会が発足させたグループが好きで、
たまに記事を読んだりYouTubeで動画を観たりしています。
そこの記事で出たクイズで
『絶対の対義語は?』というものがありました。
『絶対』という言葉の『絶』という漢字は、
染めて色をつけた糸が切れやすかった為、
『絶つ』という意味を持ったと、昔聞いたことがあります。
つまり『対するもの』を『絶つ』=『絶対』
なわけですね。
グーグル先生曰く、
『絶対』とは
<他との比較対立を越えていること。
《副詞的に》 決して。「―そうじゃない」「―に許すな」。断じて。 「―行く」>
のいう意味を持つそうです。
すると、この対義語はこの記事のタイトルになっている『相対』(そうたい)となるわけです。
『相対』(そうたい)とは、
<それ単独にでなく、他と関係づけて捉えること>
という意味だそうで、
「恋人がいる人と相対的に考えると、私は人間関係が充実していない」
みたいに使います。
もっと現実的に用いる形式にするなら「あいつはリア充、俺は非リア」と比べることですね。
今回は『相対主義』について書こうかなぁと思っています。
というのも、私が大学に入って1番最初に「すげぇ! 確かにそうだわ〜」となったのが、
相対主義というものを知ったときなんです。
(知った、なんて軽々しく書いていますが
案の定いつもの通りのスフレ感なんちって哲学なので、生温い目で読んでやってください)
相対主義という言葉を知ったのは、
1年生のときに受講していた倫理学の講義でした。
その講義の始めに、教授から相対主義とはなんぞやと教えてもらったんですね。
相対主義のことをフランクフルト並のフランクさで表現すると、
彼女はカップのふちを人差し指でなぞりながら
『でも、人それぞれだからね』
と言った。ぼくは黙らざるをえなかった。
です。
ですってなんだよって感じですね。
調子に乗りました。申し訳ございません。
カップのふちをなぞらなくても構わないのですが、
『人それぞれだからね〜』って言う人いませんか。それ、私です。
こんな話をしておいてなんですが、話題を平和的に終わらせようとすると、ついついつい言ってしまう言葉。
これぞ相対主義です。
人それぞれ、平和的、コレは結構な話だなぁ
となりませんか?
多様性を認め合うことが推奨される昨今、
相対主義万歳です。
諸手を挙げて大喜び、みんな仲良く、人それぞれに個性を認めあってうんぬんかんぬんじゅげむじゅげむ。
そうはいかないんです。
倫理学の教授、言いました。
「相対主義はね、基本的には、支持されてないんですよね。あ、もちろんそういう哲学者も居ることには居ますけど。基本的にはね、基本的には」
これを聞いて、
「人は人でしょ。それぞれ認め合うことが正しくないわけない」
と思いますか?
そう思うのも、もっともな話です。
人はそれぞれ異なる人生を歩み、異なる経験を積んでおり、そこに貴賎はありません。
お互いの違いを認めあい、かつ共生していく道を目指してこその人間道徳。
素晴らしき人間社会ってなもんです。
じゃあ相対主義を支持しない哲学者たちは、
人の個性を認めない最低鬼畜野郎なのでしょうか?
こんな記事を書いている私は、
今すぐ多様性を認め合う社会に対してスライディング土下座をキメるべきなのでしょうか???
違うんです。
相対主義を否定する、ということは、
必ずしも多様性を認めないということではないんです。
哲学者が、あまり相対主義を支持しないのには理由があります。
それは哲学をする上で大切な『答えが出なくとも思考を止めず、考え続ける』ということを実践するためなんです。
先程の、失笑ものの例を思い出してみてください。
「人それぞれだから……」という解答に対して、私たちは黙るしかないんです。
だって本当のことだから。
人はそれぞれ違う、そんな当然のことを言われたら黙るしかありません。
正論中の正論です。
あんたが正しい。あんたが大将。そんな感じです。
相対主義は、人間関係の構築においてはめちゃくちゃ大切な考え方です。
世の中本当にいろんな人がいます。
その人たちの経験を体験したこともないのに、彼らの考え方を否定することは私には出来ません。
でも、哲学においては黙っちゃダメなんです。
前の記事の話になってしまいますが、
「浮気は悪だ!」という人がいて、
「浮気だって恋だ!」という人がいて、
それに対して「まあ人それぞれだからね〜」
で、済ませていいのは、対人関係に配慮すればこそです。
相対主義=人それぞれ、という考え方は、
哲学にとって1番最悪な『思考停止』を招きます。
思考停止してしまうと延々と問題は解決しません。
浮上した問題は「人それぞれ」で鎮火するように見えて、また別のところで浮上します。
これを避けるために、教授は「相対主義は支持されない」と、説明してくれたんですね。
哲学は遥か先にある本質に向かって、
頑張ってヒーコラ言いながら議論していく学問らしいですが、
それを途中で「それぞれ人間は違うからね、はい、じゃあこれで暗い話は終わり!」
と降りることは許されていないわけです。酷い話です。
でも、そのおかげで昔のえらーくて頭の素晴らしく良い人が、
今の便利な世の中を構築してくれたのだと考えると、相対主義の使い分けというのは大事なことだなぁと思います。
個性の尊重をするためにも、議論を避けず、
お互いの思想を高めあっていけるような会話が理想的ですね。
なんだか真面目腐っていて嫌になっちゃいますね。
一応書いておくと、友達が哲学マニアじゃなかったら、哲学の話はしない方がいいですよ。
じゃないと、誕生日を親にしか祝ってもらえないという事態が発生します。今年の私です。
ここまで長々と読んでくださってありがとうございました。
ご意見、ご感想、ご批判、誕生日に対して哲学しろや等のコメント頂けると泣いて喜びます。