哲学科があーでもないこーでもない

哲学科の学生が不勉強を猛省しながらごちゃごちゃ恋愛とか人間について書いています。

浮気について哲学した話④

こんにちは。

久しぶりに会った子に彼氏彼女が出来ていると

おうふってなる大学生です。

うらやましいことこの上なし。

 

今回は、男女間の浮気に対する考え方の違いについて書かせていただきます。

 

私はSNSというものに触れて早6年近く経つのですが、最近 #Metoo運動 や、ダイバーシティ推進をする動きをよく拝見します。

 

立場の平等を目指すことは良いことだと思う一方、心配になることも少しありますね。

 

というのも、この間村上龍さんの『すべての男は消耗品』であるを再読しまして、

この本がま〜あヤバいんですよ。何がヤバいって、タイトルからして一部の男性からフルボッコにされること確定なんですけれど、本文の方がフェミニスト団体が烈火のごとく怒る内容満載です。

 

いま文章をTwitterなんかにあげたら、どんど焼き並みによく燃えると思いますが、

面白いので関心があったらお手にとって見てください。

でも、読んでスーパー不愉快になっても責任は取りませんのであしからず。

 

話がずれました。

この話はまた別の機会にするとして、

今回はその中の一部分である、

浮気に対する男女差、意識の差、などなどについて思うがままに書きます。

 

書くにあたって。

男女、と分けると、人間には2種類しか居ないように感じられてしまいますが、

実際にはそんなことはないということは、

この文章をお読みの方はお分かりかと思います。

LGBTの方、それ以外の性的なマイノリティを背負っている方、まだ名前や枠がないけれども、自分はどこにも当てはまらないと考えている方。

実際のところ、個人個人の自意識は各々全く違うものなので、自分が男である/女である、と感じている方々でも、

当然ながら考えていることは異なると思います。

 

人間はどうしても、経験によって事柄を把握してしまう生き物だと考えています。

 

ですので『哲学科だから』という様に、このブログを書いているわけですが、

それはあくまで私自身の経験に左右されてしまっているものであり、

当てはまらない方々もおられると考えます。

(可能な限り、個人的な経験を排除するべきなのは分かっているのですが、

あくまで主観によって書いている以上、どうしても誰に対しても普遍的な事象だけ書くことはできないと思ってしまいます……)

 

ですので、もし、この文章を読んで、スーパー不愉快になられたら本当にすみません。

すみませんついでに、

その気持ちをコメントで教えてくださると、嬉しく思います。

 

それでは、

しみったれた前置きは置いておいて、本題に入ります。

 

浮気に対する男女の考えって、そんなに違うわけ? とお思いの方。

実際はたいして違わないと思います。違うのはイメージだけです。

 

1度くらいの浮気なら許す

という方が居る一方で、

他の異性に目を向けたらそれで終わり

と考える人が居ます。

 

男女関係ありません。ほんと。人によりけり。

 

はい、じゃあこの話終了〜といきたいところなのですが、

実際に浮気なんかで炎上すると、ジェンダー論を持ち込んでくる人が居ます。

 

男は浮気をするものだから、仕方がない。

これが代表選手ですね。

これ、テレビの男性コメンテーターの方がふんわり発言していたのも聞いていましたが、

同時に私の友人女性も同じようなことを発言していました。

 

どうしてこんなイメージを持っている人が一定数居るのか、というと、

個人的には男性に対する性的なイメージが関係しているのかな、と感じます。

 

つまり、男性は性的に『たまる』ので欲求を発散することが必要だ、というイメージです。

 

色々ご意見あると思います。

 

生物学的な事実から見ると、

男性の性的能力の特徴として、短期間に複数の異性と生殖可能なので、

性的欲求の発散が必要かどうかは別としても、身体がそのように、ある程度想定された設計になっているような気もします。

 

その一方で、女性には性的欲求の発散が男性より不必要であるのか、と問われると違うような気もします。

 

フワッフワッしてきましたね。

まとめましょう。

 

私は、このイメージは『男性という全体に対して適用するには間違っている』と考えます。

 

その上で、なぜそのようなイメージが男性だけに強めに存在しているのかというと、

上記のような生物学的な理由とは関係なく、

『社会的な男女の立場の差』が理由だと考えます。

 

外に出て働く男性、家の内で家庭を守る女性

という昭和以前っぽい家庭像は、

私が生まれたときには、とんと古いものだと認識されていたので、自分的には具体的な想像はできません。

ただ、外にいるのと、家にいるのでは、

異性と接触する回数がどれだけ異なるかは、現代とあまり変わらない気がします。

 

出会い系が蔓延して、すけべーなサイトやすけべーな動画がどれほど見られるようになったとしても。

そこに存在しているのは画面です。

画面。

お分かりでしょうか。

画面、液晶です。眼球に焼きつかんばかりのダイナマイトボディも、ムキムキの肉体美も、画素の集合体です。

 

LINEで繋がっている気になっていようが、

Twitterで可愛い女の子orステキなイケメンをフォローしようが、

それは人間の身体ではありません。

 

つまり、外に出ないと本当の意味では異性と接触出来ません。

これは古今東西、今昔物語、いついかなるときも不変です。

 

私は家が大好きなので、業務連絡以外で異性と1ヶ月くらい話をしないとかザラです。生き証人です。

 

上記の悲しい事実を考えると、

昔、外に出て仕事をすることが当然だとされてた男性と、家に居て子育てや家事をすることが当然とされていた女性では、

そもそもの『異性と接触する確率』が変わってくるかと思います。

 

誘惑に対する耐性値のようなものがあったとしましょう。

その値が男性、女性共に同じだったとしましょう。

異性と接触する確率が高い方が、浮気しやすいですよね?

 

性欲うんぬんは置いておいて、

それを発散できる状況にあるか、ないか、という点は非常に関係あると思います。

 

これを踏まえた上で、もう一度、

男性は浮気をするものだから仕方がない

というイメージを考えてみると、

これは昔の社会的な状況によって成立した

ある『経験』から生まれたイメージであり、

現代には通用しかねるものであると言えると思います。

 

そしてこれは、男性はこう、とか、女性はこう、というあらゆるイメージに対しても言えることだと思います。

 

男性も、女性も、恋愛をする以上、肉体がある以上、浮気と定義されているアレコレをします。

これが間違いだとか不道徳だとか、自由恋愛だとか浮気も恋の1種だとか、

感想を抱くことは個々人の自由です。

 

でも、それで性別に対するイメージに関して言及することは、ちょっと違うのかな? と考える次第です。

 

哲学科っぽいことを言ってみると、

個人的に、愛とは人間が生活する事に必ず付属する物語性の1種、だと考えています。

 

つまり無いってことです。

愛って存在しないです。

 

まず目に見えないですからね!

聞こえないし、触れないし、伝説上の存在でももうちょっとは存在してるだろってレベルです。

 

でも愛を信じている人は多いですし、

多言語でも愛に対応する言葉があります。

 

この摩訶不思議な言葉にまつわる恋とか浮気とか、そういう現象もまた、定義するには難しいことだと感じます。

 

定義することが難しい、ということは

周りの言うことに流されなくってもいいんだよ、ということでもあります。

誰も正解を知らないわけで、みんな憶測で物事を話しているだけですからね。

 

私個人は、浮気は悪であるとも善であるとも思いません。

されたら悲しいんだろうなぁと思いますが、それ以前に契約破棄してくれる恋人が居ません。

 

ただ、これを読んでくださった有難い方々が

少しでも「はぁーん、こんな馬鹿な考え方もあるのね」と思って笑ってくれれば幸いです。

 

長々とお付き合い下さり、ありがとうございました。

ご意見、ご感想、ご批判、どうすれば私に恋人が出来るのか、諸々ご教授頂けると、泣いて喜びます。