物語はだれのために書かれるのか?
こんにちは。
始まってもいなかったクリスマスに別れを告げた私です。
この間、こんなアンケートをとりました。
結果の偏りがやばかったです。
『自分のため』が97%ってすごいですよね。地球における海の割合が約70%なので、web小説界隈では日本沈没どころかイタリア半島を残して全世界沈没してますね。イタリア半島が3%って大きすぎですかね。
イタリア半島、もとい『他人のため』に小説を書く人は、この結果をどう思うんでしょうか。気になるところですが、ここで本題に入りたいと思います。
ずばり物語はだれのために書かれるのか?
という問題です。
上記のアンケート(母数が少ないので正確なデータとは言えませんが、手元にある生きたデータなのでこれを元に書きます。すみません)を参照すると、少なくとも『物語の作り手』の大半はは『自分のため』と考えているようです。
チョロっと思いついた理由を並べてみます。
・自分の好きな登場人物を動かすため
・書くのが楽しいため
・物語を考えるのが好きなため
・承認欲求を満たすため
上記の理由のどれかかなぁと思うのですが、いかがでしょうか??
他の理由がある方は教えて下さると幸いです。
私自身をかえりみても、そうかもしれません。
うひゃあー面白い物語おもいついた! 書こ! ウワーッタノシイ! メッチャタノシイ! アラ、カキオエチャッタ!
こんな感じです。嘘です。
実際はもっと悩んでます。
書いている途中で
(うわ、これ矛盾だらけだ)
(うわ、これ登場人物あかんこと言ってる)
(うわ、もしかしてこれ駄作じゃないか?)とか思いますよね?
楽しいだけの作業ではありません。もしかするとひたすら楽しい人もいるのかもしれませんが、大体の人は何らかの苦労をもって物語を書くと思います。
そう考えると理由の上3つは若干雲行きが怪しいですよね。
次の楽しい瞬間のために苦労して物語を進める、という感覚もあって然るべきですが、もしそれが完全に通用するならマゾヒズムもいい所だと思います。(すみません)
世の中娯楽で溢れかえっているのに、そんなことをしてまで物語を作る楽しさに執着する必要がないからです。
では、承認欲求はどうでしょうか。
物語を書くのが承認欲求の元に行われるのならば、納得がいきます。
『誰かに認めてもらいたい』というアイデンティティの肯定は、表現活動と切っても切り離せない関係にあるからです。
じゃあこれでこの議題は終わり。さっさと次の話に進めやいざ行かん……といきたいのですが、そうも行きません。
もし承認欲求を満たすためだけに物語を書いているのなら、あまりにも悲惨です。なぜならある程度きちんとした物語を作るには、途方もない時間と労力が必要だからです。
時は大SNS時代、海賊王にはなれなくても誰でもプチインフルエンサーになれます。
ちょいと過激なことをネットの海で叫べば、誰もが寄ってたかって祭り上げて燃えたり鎮火したり再炎上したりします。
そういう時代に文章ですか? 物語ですか?
承認欲求を満たす方法は、それこそ腐るほどあるのに?
物語を作ることは確かに満たされる方法の一つですが、どちらかというと承認欲求をブーストさせる作用の方が強いような気がします。あくまで気がするだけですが。
先ほど並べた4つの『自分のため』に書く理由は、どれも正しいのかなぁとは思います。(もちろん個人差はありますが)
ですが、真実そのものではないと思います。
本当に自分のためだけに書いているのならば、筆をとることはない、と私は思います。
なぜでしょうか。
それは『物語』の本質に『共有』という側面があるからです。
ちょっと話がそれます。
『面白く魅力的な物語を書くためにはどうしたらよいか?』と聞くと、
多くの物書きさん達は『自分の面白いと思うものを書け。それがいつか読者に伝わる』と話します。
これって変な話です。
作者と読者は違う人間です。縁もゆかりも無い、背景も思想も宗教も違う人間です。
なのに、なぜ伝わると分かるのでしょうか?
そしてなぜ、実際に伝わってしまうのでしょうか?
自分が面白いと思うものが、なぜ他人にとっても面白いと思えるのか。
それは作者側/読者側、双方から物語に期待しているものがあるからです。
例えば、主人公に『試合で勝ってほしい』と作者が願い、その通りに書きます。
読者は必ずしもそう思いません。その主人公がいけ好かない奴だと感じていれば『試合に負けろ』と思います。
この場合、お互いの期待がすれ違い、物語は結果として読者にとって面白くないものになります。
作者はどうするべきでしょうか? こう読者に思われないために、主人公が『試合で成功するに相応しい人物』であることを示すでしょう。
苦労した過程を描写し、好人物であることを表すでしょう。
ひとつ補足しておくと、これは作者が読者におもねるわけではありません。
読者と自分が期待する物語のために、正しい道筋をたてる、ということです。
まとめると、
作者が自分にとって『面白い物語』を作るためには『読者』の目が必要不可欠なんです。
『読者』とは、ある意味では物語における審判です。制約です。思い通りにいかせてくれない存在です。
そういう手に余るものを相手取ることで、物語は物語として機能します。
つまり、より素晴らしい物語になろうと『物語それ自体』が努力し始めるんです。
作者は努力をしません。書くだけです。読者も努力をしません。読むだけです。
ただ双方が物語に『期待』をするために、物語それ自体がコミュニケーションを媒介する機能として動き始めるんです。
めっちゃ難しい話になってきた気がします。
私も混乱してきました。
言いたいことはひとつです。
どんな物語でも『自分のため』にだけ書かれることはありません。
言葉の本質的なベクトルは世界に向けて飛び出ていて、それを用いる物語は他者無しに存在しえないからです。
こんなことをポロポロ考えた年末です。
他人のために、なんて言うと偽善っぽいですが、他人のために行うことはすべて自分のためでもあるので、こんなことを考えてもあんまり意味はないです。
でも気になったので、なんとなく書いてみました。
最後に私の大学の先生が言った言葉をひとつ。
『物語は人間しかつくらない』
です。
終わりのない世界に終わりを作ろうとする行為が物語、だそうです。難しいことを言う先生です。でも大好きでした。
ここまで読んでくださってありがとうございました。
またボチボチ更新しますね。