哲学科があーでもないこーでもない

哲学科の学生が不勉強を猛省しながらごちゃごちゃ恋愛とか人間について書いています。

LGBTって言葉

こんにちは。秋めいてきて、今更将来に対する不安が募る大学生です。

 

新潮社のあーだこうだが話題になっていますね……。

ハフポストの記事なんかをLINEでよく拝見するのですが、当事者の方には不愉快極まりないを通り越して「なんだこの前時代の遺物は…」という驚愕と呆れがあるのではないかと推察する次第です。

 

話変わって、最近『ブリジット・ジョーンズの日記』を読んだのですが、その中にトムというゲイの男性が登場します。

彼は主人公ブリジットのとても優しい友達で「三十代未婚女性とゲイの男性には不屈の友情がある」と述べるのですね。

原作は1996年に書かれたものなので、今よりももっとプロトタイプから外れた人達への当たりが強かったのだと思います。

 

それにしても、22年前の小説でもゲイの男性が居ることは当たり前として受け入れられているのに、2018年現代の日本でああいった記事が表に出てしまう事にはびっくりしますよね……。

 

もっと言えば、ローマでは綺麗な少年を買うことは当たり前だったし、日本でも仮面の告白だなんだってメジャーではないセクシャリティの在り方について存在がどうのこうの言う前に、周知の事実だったわけです。

 

それに対して、最近LGBT運動の盛り上がり(当事者にとっては不愉快な言い回しかもしれません…申し訳ないです)に反発してか、

そういった問題に言及する人達の意見を主にネット界隈で見受けますね。

 

私個人の意見としては、セクシャリティの問題は『個人の問題』です。私が哲学科に入学するまでには様々な個人の問題がありましたが、それと種類は同じだと思います。

個人にとっては重く、社会にとっては軽いんです。

 

(不愉快にさせた方がいたら、本当に申し訳ないです。個人の問題だから社会で取り上げるべきではない、という事ではなく、本質的に個人の問題である、という事を強調したいがための表現だとご理解ください)

 

ただこの非常に個人的問題は時として共有されるタイミングが必要で、それが個人に対して良い影響があったらどんどん取り上げるべきなんです。

ただ、果てしなく個人的な問題であるが為に、社会の決定的な対策というものが望みづらい領域です。

 

しかしこの問題がやっとこさ、日本の企業に認知され始めてきました。LGBT市場、というやつですね。ニッチであったがために、注目のされ方も激しかったのかもしれません。

あまりビジネスの事は詳しくないのですが、これは当事者、企業たちにとって良いことなんだろうと感じます。

 

ただ、お金の問題が絡むと出てくるのが「偉い人」です。偉い人はきっと偉いんだと思います。アホっぽい言い回ししか出来なくてすみません。偉い人は、多分一所懸命に働いてきた人で、経済を回そうと努力してる人なんです。多分。

 

でも、偉い人は悲しいかな、自分が居ないもっと未来の人達のことは考えてくれません。

 

自分が頑張ってきた時代の倫理観(正確に言うと、その人の周りにいた人達の倫理観ですね)にしか、すがれないんです。

だって、そうでもしないと自分の居場所が無くなっちゃうような不安に駆られるから。

今更否定できないんでしょうね。多分。

 

違和感はもちろんあるんです。

だって最近の流れってLGBTという言葉で祭り上げてるみたいで、元々居た人達がそこに居ることを、まるで『承認してあげている』みたいに見えてしまいます。

何様なんだろう……って気持ちになってしまいます。

でも、これは今まさに悩んでいる方達にとっては、要らん反論なんだろうなぁとも思います。

 

私が30代、40代…となっていく過程で、時間ぐすりが効いてきて、誰にとってもより良い時代が来ると思います。

 

そのとき、おっちゃん/おばちゃんになった私の前に『理解できない価値観』が現れた時のことを考えます。

(たとえば、自転車と結婚する手続きが取れるようになるとか、頭の上にアヒルのおまるを載せるのが流行るとか…)

もしかしたら、現段階でそういう価値観もいるのかもしれません。

そういう方達にとっては、今の私は「なんだこの前時代のバカは」と考えて、ミジンコ並みの脳みそを放置してやってほしいです。

 

その時、私が理解できなくても、そういう価値観を持っている老若男女の人達を傷つけることないよう、精進しなくてはと思います。

 

ふと思いついたことでしたが、久しぶりに書いてみました。不愉快に思われた方がいたら申し訳ありません。もし思うところあったら、コメント頂けると幸いです。