哲学科があーでもないこーでもない

哲学科の学生が不勉強を猛省しながらごちゃごちゃ恋愛とか人間について書いています。

ボカロの曲はオペラに似ているって話

こんにちは。社会人です。

元号変わりましたね……!! 実感が湧きませんが、また元号が変わる時にそなえて、5月1日の新聞一面は保存しておきました笑

 

それはともかく、今回は最近の物語における『普遍性への嫌悪感』について考えたことを書こうかな〜と思っています。

 

なんでこんな記事を書こうと思い立ったか、といいますと。

実はVOCALOIDが関係しています。ボカロです。ボカロ。

 

私はVOCALOIDまみれで育ったのですが、

ふと『曲にストーリーをつけること』について考えました。

VOCALOIDはノベライズ化が多く、はじめはサラッと出された曲に後からストーリーがつく、みたいな過程が多いんですね。(作者の方は最初から構想していたのだと思います)

 

これって面白い現象です。言ってしまえば『歌詞』の部分において、オペラやミュージカルに近しいことをしているわけです。

 

音楽にかぎらず、どの分野においても『共感』

って大切ですよね。

 

これが、通常の音楽における共感では、

 

歌詞→わたし

 

の流れです。

 

ですがオペラ、ミュージカル、そしてVOCALOIDの一定の曲では

 

歌詞=ある登場人物→わたし

 

なんですね〜。

 

登場人物という『ある人物』のクッションを置いて、その人物への共感をもとに感情移入をはかるやり方だと思います。

 

このやり方の良い点は、まさに『我が事』にしづらい点にあるんですね。

 

たとえば、失恋をして、しんど……つら……むり……となっているときに、

 

バリバリの中島みゆきさん失恋ソングが聞きてぇ!! って人もいれば、

 

いや、心が折れるから無理。関係ない曲が聞きたい。

 

そんな人もいます。

逆に全然失恋どころか恋愛すらしてないぜ! と開きなおる私のような人間もいます。

 

後者二人にとって『登場人物への共感』は非常に楽です。やりやすいです。

なにが楽かって、実在しない人物には共感しやすいんです。

 

聞いてください。VOCALOIDも、その中にあるストーリーも大好きです。

話が膨らむ過程に面白さがありますし、伏線の張り方も音楽独特のやり方があってすてきです。

 

ただ不思議に思うのは、こういった形の曲がなぜあるのだろう? との疑問です。

 

そこでボケーッと考えた結論が、

『普遍性への嫌悪感』が現れているのでは?

との考えです。

 

 

嫌悪感って『なんとなく嫌』のことです。

 

『なんとなく』ってなによ?

と申しますと、私的には、

 

『なんとなく』≒『生理的に』≒『変えることは現時点では不可能』

だと考えています。

 

地球上のあまねく人々、過去も経験もちがうので、当然考えていることがちがいます。

そのせいで『なんとなく』が心のどんづまりにあって、抜け出せないのかな〜なんて思います。

 

これは『なんとなく』がダメ! ってことじゃなくて、

『なんとなく』は変えるのがすごく難しい……! ってことです。

 

(ジェネレーションギャップが良い代表例かな、と思います。年をとってから考え方を変えられる人は人間ができすぎています)

 

 

さて、それを踏まえて。

『普遍性への嫌悪感』=『普遍性って、なんとなく嫌』と読んでみてください。

 

普遍性って『すべての物事に通じる性質』

のことです。

 

『すべての物事に通じる性質って、なんとなく嫌』……?

 

え、日本って同調圧力強めじゃん?

え、みんな一緒でみんな良いの風潮じゃん?

 

 

そのように思われた、そこの貴方……

大正解です。

 

 

ここでちょっと話が変わるのですが、

『個性の重視』ってなんでしょう??

 

教育云々の話はとりあえず置いておいて

『私の個性』との話になったとき。

たいていは(堂々とはしていなくとも)話せると思います。

 

たとえば、

「わたしは〇〇県出身の〇〇です」

くらいは、大抵の人が言えるのではないでしょうか。

 

『他』と『じぶん』はちがう!

と大声で言えるだけで、十分に個性です。

 

でも実際は、ちょっとちがう捉え方をされていますよね。

 

たとえば、

「わたしは本を読むのが好きで、読書感想文は〇〇について書きました」

とか。

 

「わたしはインターハイ出場経験があり、〇〇社に新卒で入社しました。資格いっぱい持ってます」

とか。

 

「わたしはクィアで自分が男か女か分かりませんが、いまのところパートナーは女性です」

とか。

 

「わたしは〇〇党支持者ですが、家族は反対派なので大人しくしているんです」

とか。

 

下二つは、日常会話ではちょっと出づらいかもしれませんが……どれも尊ぶべき各々の特徴です。

だからといって、過剰に要求されなければならない『個性』ではありません。

 

『他』と『自分』を隔てるものは、必ずしも『少数派』であることとは異なります。

 

他の誰にもできないこと、なんて正直世の中にはないです。 

たいていの場合、そんなに異ならないです。

みんな本当は同じなのに、それにたいして『個性』を貼りつけているのでは……と思う次第です。

 

これは『少数派』の人々なんて居ないよ!無視しよ! と言っているのではなく、

 

大抵の問題は本質的に『普遍的』なのにも関わらず、『個性』の言葉に甘えて思考を止めているのでは?

 

と思ってしまったがゆえです。

 

たとえば。

 

県民性を語ることについての問いかけ。

読書習慣についての問いかけ。

成果主義についての問いかけ。

性自認、性志向についての問いかけ。

政治についての問いかけ。

 

個人個人の考え方、主義主張は大切です。侵害しちゃダメなものです。

その考え方が浸透しつつある現代は、まだまだこれから頑張らなくてはいけないにせよ、すばらしいと思います。

 

でも。

 

それって他人の問題でしょうか?

 

なんて不勉強ながら思います。

名前をつけられた『登場人物』ではなく「〇〇県在住の〇〇さん」が、そこに居るからです。

 

特別な力をもつ特別な人間にならない世の中で、そこに「ある人間」がいることを忘れないでいたいです。

 

なんて思った次第です。

再三ですが、VOCALOIDの曲は好きです。あとオペラも好きです。

ただ『個性』が重要視される理由は『普遍性』が元になっている! ってことを再確認したい。

そんな記事でした。

 

長々と書いてしまいましたが、ここまで読んでくださりありがとうございました!

また気が向いたら、よく分からないことを書くやもしれません!