哲学科があーでもないこーでもない

哲学科の学生が不勉強を猛省しながらごちゃごちゃ恋愛とか人間について書いています。

【相対主義】哲科1年生。初めての啓示を受けるの巻。

こんにちは。

お昼ご飯は100円前後のカップラーメンに限る大学生です。

 

実は私、quizknock という東京大学のクイズ研究会が発足させたグループが好きで、

たまに記事を読んだりYouTubeで動画を観たりしています。

 

そこの記事で出たクイズで

『絶対の対義語は?』というものがありました。

『絶対』という言葉の『絶』という漢字は、

染めて色をつけた糸が切れやすかった為、

『絶つ』という意味を持ったと、昔聞いたことがあります。

 

つまり『対するもの』を『絶つ』=『絶対』

なわけですね。

 

グーグル先生曰く、

『絶対』とは

 

<他との比較対立を越えていること。
《副詞的に》 決して。「―そうじゃない」「―に許すな」。断じて。 「―行く」>

 

のいう意味を持つそうです。

 

すると、この対義語はこの記事のタイトルになっている『相対』(そうたい)となるわけです。

 

『相対』(そうたい)とは、


<それ単独にでなく、他と関係づけて捉えること>

 

という意味だそうで、

「恋人がいる人と相対的に考えると、私は人間関係が充実していない」

みたいに使います。

もっと現実的に用いる形式にするなら「あいつはリア充、俺は非リア」と比べることですね。

 

今回は『相対主義』について書こうかなぁと思っています。

というのも、私が大学に入って1番最初に「すげぇ! 確かにそうだわ〜」となったのが、

相対主義というものを知ったときなんです。

 

(知った、なんて軽々しく書いていますが

案の定いつもの通りのスフレ感なんちって哲学なので、生温い目で読んでやってください)

 

相対主義という言葉を知ったのは、

1年生のときに受講していた倫理学の講義でした。

その講義の始めに、教授から相対主義とはなんぞやと教えてもらったんですね。

 

相対主義のことをフランクフルト並のフランクさで表現すると、

 

 彼女はカップのふちを人差し指でなぞりながら

『でも、人それぞれだからね』

と言った。ぼくは黙らざるをえなかった。

 

です。

 

ですってなんだよって感じですね。

調子に乗りました。申し訳ございません。

 

カップのふちをなぞらなくても構わないのですが、

『人それぞれだからね〜』って言う人いませんか。それ、私です。

こんな話をしておいてなんですが、話題を平和的に終わらせようとすると、ついついつい言ってしまう言葉。

 

これぞ相対主義です。

 

人それぞれ、平和的、コレは結構な話だなぁ

となりませんか?

 

多様性を認め合うことが推奨される昨今、

相対主義万歳です。

諸手を挙げて大喜び、みんな仲良く、人それぞれに個性を認めあってうんぬんかんぬんじゅげむじゅげむ。

 

そうはいかないんです。

倫理学の教授、言いました。

 

相対主義はね、基本的には、支持されてないんですよね。あ、もちろんそういう哲学者も居ることには居ますけど。基本的にはね、基本的には」

 

これを聞いて、

「人は人でしょ。それぞれ認め合うことが正しくないわけない」

と思いますか?

 

そう思うのも、もっともな話です。

人はそれぞれ異なる人生を歩み、異なる経験を積んでおり、そこに貴賎はありません。

お互いの違いを認めあい、かつ共生していく道を目指してこその人間道徳。

素晴らしき人間社会ってなもんです。

 

じゃあ相対主義を支持しない哲学者たちは、

人の個性を認めない最低鬼畜野郎なのでしょうか?

こんな記事を書いている私は、

今すぐ多様性を認め合う社会に対してスライディング土下座をキメるべきなのでしょうか???

 

違うんです。

相対主義を否定する、ということは、

必ずしも多様性を認めないということではないんです。

 

哲学者が、あまり相対主義を支持しないのには理由があります。

それは哲学をする上で大切な『答えが出なくとも思考を止めず、考え続ける』ということを実践するためなんです。

 

先程の、失笑ものの例を思い出してみてください。

「人それぞれだから……」という解答に対して、私たちは黙るしかないんです。

 

だって本当のことだから。

人はそれぞれ違う、そんな当然のことを言われたら黙るしかありません。

正論中の正論です。

あんたが正しい。あんたが大将。そんな感じです。

 

相対主義は、人間関係の構築においてはめちゃくちゃ大切な考え方です。

世の中本当にいろんな人がいます。

その人たちの経験を体験したこともないのに、彼らの考え方を否定することは私には出来ません。

 

でも、哲学においては黙っちゃダメなんです。

 

前の記事の話になってしまいますが、

「浮気は悪だ!」という人がいて、

「浮気だって恋だ!」という人がいて、

それに対して「まあ人それぞれだからね〜」

で、済ませていいのは、対人関係に配慮すればこそです。

 

相対主義=人それぞれ、という考え方は、

哲学にとって1番最悪な『思考停止』を招きます。

思考停止してしまうと延々と問題は解決しません。

浮上した問題は「人それぞれ」で鎮火するように見えて、また別のところで浮上します。

 

これを避けるために、教授は「相対主義は支持されない」と、説明してくれたんですね。

 

哲学は遥か先にある本質に向かって、

頑張ってヒーコラ言いながら議論していく学問らしいですが、

それを途中で「それぞれ人間は違うからね、はい、じゃあこれで暗い話は終わり!」

と降りることは許されていないわけです。酷い話です。

 

でも、そのおかげで昔のえらーくて頭の素晴らしく良い人が、

今の便利な世の中を構築してくれたのだと考えると、相対主義の使い分けというのは大事なことだなぁと思います。

 

個性の尊重をするためにも、議論を避けず、

お互いの思想を高めあっていけるような会話が理想的ですね。

 

なんだか真面目腐っていて嫌になっちゃいますね。

 

一応書いておくと、友達が哲学マニアじゃなかったら、哲学の話はしない方がいいですよ。

じゃないと、誕生日を親にしか祝ってもらえないという事態が発生します。今年の私です。

 

ここまで長々と読んでくださってありがとうございました。

ご意見、ご感想、ご批判、誕生日に対して哲学しろや等のコメント頂けると泣いて喜びます。

 

浮気について哲学した話④

こんにちは。

久しぶりに会った子に彼氏彼女が出来ていると

おうふってなる大学生です。

うらやましいことこの上なし。

 

今回は、男女間の浮気に対する考え方の違いについて書かせていただきます。

 

私はSNSというものに触れて早6年近く経つのですが、最近 #Metoo運動 や、ダイバーシティ推進をする動きをよく拝見します。

 

立場の平等を目指すことは良いことだと思う一方、心配になることも少しありますね。

 

というのも、この間村上龍さんの『すべての男は消耗品』であるを再読しまして、

この本がま〜あヤバいんですよ。何がヤバいって、タイトルからして一部の男性からフルボッコにされること確定なんですけれど、本文の方がフェミニスト団体が烈火のごとく怒る内容満載です。

 

いま文章をTwitterなんかにあげたら、どんど焼き並みによく燃えると思いますが、

面白いので関心があったらお手にとって見てください。

でも、読んでスーパー不愉快になっても責任は取りませんのであしからず。

 

話がずれました。

この話はまた別の機会にするとして、

今回はその中の一部分である、

浮気に対する男女差、意識の差、などなどについて思うがままに書きます。

 

書くにあたって。

男女、と分けると、人間には2種類しか居ないように感じられてしまいますが、

実際にはそんなことはないということは、

この文章をお読みの方はお分かりかと思います。

LGBTの方、それ以外の性的なマイノリティを背負っている方、まだ名前や枠がないけれども、自分はどこにも当てはまらないと考えている方。

実際のところ、個人個人の自意識は各々全く違うものなので、自分が男である/女である、と感じている方々でも、

当然ながら考えていることは異なると思います。

 

人間はどうしても、経験によって事柄を把握してしまう生き物だと考えています。

 

ですので『哲学科だから』という様に、このブログを書いているわけですが、

それはあくまで私自身の経験に左右されてしまっているものであり、

当てはまらない方々もおられると考えます。

(可能な限り、個人的な経験を排除するべきなのは分かっているのですが、

あくまで主観によって書いている以上、どうしても誰に対しても普遍的な事象だけ書くことはできないと思ってしまいます……)

 

ですので、もし、この文章を読んで、スーパー不愉快になられたら本当にすみません。

すみませんついでに、

その気持ちをコメントで教えてくださると、嬉しく思います。

 

それでは、

しみったれた前置きは置いておいて、本題に入ります。

 

浮気に対する男女の考えって、そんなに違うわけ? とお思いの方。

実際はたいして違わないと思います。違うのはイメージだけです。

 

1度くらいの浮気なら許す

という方が居る一方で、

他の異性に目を向けたらそれで終わり

と考える人が居ます。

 

男女関係ありません。ほんと。人によりけり。

 

はい、じゃあこの話終了〜といきたいところなのですが、

実際に浮気なんかで炎上すると、ジェンダー論を持ち込んでくる人が居ます。

 

男は浮気をするものだから、仕方がない。

これが代表選手ですね。

これ、テレビの男性コメンテーターの方がふんわり発言していたのも聞いていましたが、

同時に私の友人女性も同じようなことを発言していました。

 

どうしてこんなイメージを持っている人が一定数居るのか、というと、

個人的には男性に対する性的なイメージが関係しているのかな、と感じます。

 

つまり、男性は性的に『たまる』ので欲求を発散することが必要だ、というイメージです。

 

色々ご意見あると思います。

 

生物学的な事実から見ると、

男性の性的能力の特徴として、短期間に複数の異性と生殖可能なので、

性的欲求の発散が必要かどうかは別としても、身体がそのように、ある程度想定された設計になっているような気もします。

 

その一方で、女性には性的欲求の発散が男性より不必要であるのか、と問われると違うような気もします。

 

フワッフワッしてきましたね。

まとめましょう。

 

私は、このイメージは『男性という全体に対して適用するには間違っている』と考えます。

 

その上で、なぜそのようなイメージが男性だけに強めに存在しているのかというと、

上記のような生物学的な理由とは関係なく、

『社会的な男女の立場の差』が理由だと考えます。

 

外に出て働く男性、家の内で家庭を守る女性

という昭和以前っぽい家庭像は、

私が生まれたときには、とんと古いものだと認識されていたので、自分的には具体的な想像はできません。

ただ、外にいるのと、家にいるのでは、

異性と接触する回数がどれだけ異なるかは、現代とあまり変わらない気がします。

 

出会い系が蔓延して、すけべーなサイトやすけべーな動画がどれほど見られるようになったとしても。

そこに存在しているのは画面です。

画面。

お分かりでしょうか。

画面、液晶です。眼球に焼きつかんばかりのダイナマイトボディも、ムキムキの肉体美も、画素の集合体です。

 

LINEで繋がっている気になっていようが、

Twitterで可愛い女の子orステキなイケメンをフォローしようが、

それは人間の身体ではありません。

 

つまり、外に出ないと本当の意味では異性と接触出来ません。

これは古今東西、今昔物語、いついかなるときも不変です。

 

私は家が大好きなので、業務連絡以外で異性と1ヶ月くらい話をしないとかザラです。生き証人です。

 

上記の悲しい事実を考えると、

昔、外に出て仕事をすることが当然だとされてた男性と、家に居て子育てや家事をすることが当然とされていた女性では、

そもそもの『異性と接触する確率』が変わってくるかと思います。

 

誘惑に対する耐性値のようなものがあったとしましょう。

その値が男性、女性共に同じだったとしましょう。

異性と接触する確率が高い方が、浮気しやすいですよね?

 

性欲うんぬんは置いておいて、

それを発散できる状況にあるか、ないか、という点は非常に関係あると思います。

 

これを踏まえた上で、もう一度、

男性は浮気をするものだから仕方がない

というイメージを考えてみると、

これは昔の社会的な状況によって成立した

ある『経験』から生まれたイメージであり、

現代には通用しかねるものであると言えると思います。

 

そしてこれは、男性はこう、とか、女性はこう、というあらゆるイメージに対しても言えることだと思います。

 

男性も、女性も、恋愛をする以上、肉体がある以上、浮気と定義されているアレコレをします。

これが間違いだとか不道徳だとか、自由恋愛だとか浮気も恋の1種だとか、

感想を抱くことは個々人の自由です。

 

でも、それで性別に対するイメージに関して言及することは、ちょっと違うのかな? と考える次第です。

 

哲学科っぽいことを言ってみると、

個人的に、愛とは人間が生活する事に必ず付属する物語性の1種、だと考えています。

 

つまり無いってことです。

愛って存在しないです。

 

まず目に見えないですからね!

聞こえないし、触れないし、伝説上の存在でももうちょっとは存在してるだろってレベルです。

 

でも愛を信じている人は多いですし、

多言語でも愛に対応する言葉があります。

 

この摩訶不思議な言葉にまつわる恋とか浮気とか、そういう現象もまた、定義するには難しいことだと感じます。

 

定義することが難しい、ということは

周りの言うことに流されなくってもいいんだよ、ということでもあります。

誰も正解を知らないわけで、みんな憶測で物事を話しているだけですからね。

 

私個人は、浮気は悪であるとも善であるとも思いません。

されたら悲しいんだろうなぁと思いますが、それ以前に契約破棄してくれる恋人が居ません。

 

ただ、これを読んでくださった有難い方々が

少しでも「はぁーん、こんな馬鹿な考え方もあるのね」と思って笑ってくれれば幸いです。

 

長々とお付き合い下さり、ありがとうございました。

ご意見、ご感想、ご批判、どうすれば私に恋人が出来るのか、諸々ご教授頂けると、泣いて喜びます。

 

 

浮気について哲学した話③

こんにちは。めっちゃ暑いですね。

気温が上がってくると、来たる夏を連想します。

一夏の恋なんて言い回し、どうして出来たんでしょうね。

軽薄さ=浮気心として、恋には軽薄なイメージがあった頃に出来た言葉なのでしょうか。

 

それはそれとして、今回はなぜ浮気は社会的悪とされるのかについて考えてみたいと思います。

といっても、この記事を読んでくれているような皆さんはお察しの通り

この問題に対して前回のようなまどろっこしい説明は不必要かと思います。

 

浮気が社会的悪とされる理由は、前回書いた通り、夫婦関係や恋愛関係という契約を違反しているからなんですね。

約束や契約を破ったら、そりゃあ怒られるでしょう。

 

なんで約束守んなきゃいけないの?

というと、それもまた難しいですけれど。

社会生活の維持のために、人間間の取り決めを『守らない』前提で動いた場合、損しますからね。 

約束、契約を守る=善ではないにせよ、

そういったものを守らない人間だと他者から認識されることは得しないと思います。

 

契約違反が原因で社会的悪なの?

どうでも良い芸能人とかが浮気したところで、それは他所様には関係なくない?

いちいち首突っ込む必要なくない?

 

と、お思いの方おられるかもしれません。

浮気関係のニュースで「他所の家のことなんだからそっとしておこうよ」というコメント、絶対に見かけますよね。

正しい意見だよなぁと思いつつ、自分に被害なく他人を非難する事が可能な話題は

自分自身の問題から目を背けやすくてお手頃なので、そっとしておかれることはないのだろうなと感じます。

 

ただ、上記の理由以外にも、他人が人の恋愛沙汰に首を突っ込む理由はあります。

 

断固たるソースが無い(いつもそうですね、すみません……)ので話半分に読んでもらいたいのですが、

浮気=契約違反=悪、とされる原因には、この契約の生物学的側面も大いに関係していると思います。

 

つまり「それ、誰の子供?」問題です。

これを防ぐために再婚までの期間は、女性の方が長かったりしますよね。

最近はDNA鑑定が出来るので、この部分は見直されるべきと言われているらしいですが、

それにしても科学が発展するまでは、もし複数の人物と関係を持って子供を授かった場合、

父親が誰か分からなかったわけです。

 

昔だったら、その子供を誰が扶養するのか、またどの家に入ることになるのか、などなど

色々混乱しますよね。

後継問題なんて一家全体に関わる問題です。昼ドラ並みにドロドロです。

昼ドラならまだマシです。

これが偉ーい人の間で起こったら、下手すると戦争が起きます。

 

こういうややこしい状況を出来る限り作らないようにしようね〜という契約でもあるんですよね、結婚って。

なので周囲に迷惑をかけないためにも、浮気は悪いことであると認識しておく必要があったのかなと考えます。

 

今は昔の風習や考えを引きずっているだけなのでしょうか?

でも、プロトタイプの男性像は今も昔も浮気をそこまで悪く思っていないような印象を持ちます。

(男性は浮気をよしとしている、という意味ではもちろんありません!あくまで物語に出てくる男性像の話です。エロい課長とか、すけべなヒーローの役とかの話です)

 

この点を考えると、男女間における浮気に対する違いも大切になってくるかなあと思います。

 

ということで、③男女間の浮気に対する考え方の違いに続きます。

 

 

 

浮気について哲学した話②

この記事では前の記事に記載した、

①『なぜ浮気をされると悲しいのか?』

について哲学科のタヌキが考察します。

 

まず、前提として『浮気』とはなにか?

について書かせていただきます。

こういう時には広辞苑を使うべきなんでしょうが持っていないのでグーグル先生に聞いてみました。

グーグル先生曰く、

 

〈心が浮ついて変わりやすいこと。一人の異性だけを愛さず、あの人この人と心を移すこと〉

 

とのこと。

ちなみに『不倫』は、グーグル先生教えてくれませんでした。その代わりに『姦通』が出てきて、こちらは

 

〈男女が不義の交わりを結ぶこと〉

 

とのこと。

浮気をした結果の姦通って感じでしょうか。

とにもかくにも、今回使う『浮気』という表現は、一対一の恋人関係、夫婦関係を対象とします。

その関係性にある人間が、自分以外の他の人物に心を浮つかせること、愛すること、不義の交わりを結ぶこと、これを『浮気』と呼ぶことにしてみます。

 

まどろっこしくて嫌になっちゃいますね!

そもそも心の浮つきってなんじゃらほいって感じですよね。

そんな浮つき何年も感じてないし感じてみたい今日この頃ですが、

この抽象的な『浮つき』という表現、割と大切に思います。

 

またもやグーグル先生に登場してもらおうと思ったのですが、教えてくれなかったので

Weblio辞書さんに教えてもらいました。

『浮つき』とは、

 

〈気持ちがうきうきとして、落ち着きがなくなる。軽薄な感じがする。〉

 

とのこと。

つまり、『心の浮つき』という言葉に対しては『軽薄な感じ』がニュアンスにあることが何となく分かります。

ここまで見てみると、

浮気=軽薄な行いである故に否定的であるように思われます。

 

でも軽薄な行いだから悲しいのか?

と聞かれると違うような気がします。

人によっては「本気じゃない浮気ならいい」

と言う人もいますよね。

 

思うに、

「私たちの関係は軽薄ではない」

と思い込んでいることが原因なのだと思います。

 

軽薄ではない、と思っているから相手がそれを裏切ると悲しくなるのです。

ああそんなもんだったの、と。

愛していると言ったやんけ、と。

ラヴ・イズ・オーヴァーです。

 

でも考えてみてください。

浮気も恋愛体験の一種なんです。

ただ先に恋人関係、夫婦関係を自分と結んでいた人間が、他の人間と恋愛関係になることを浮気と表現しているだけなんです。

 

ここで問題なのは果たして、自分と浮気相手における『愛情に対する軽薄さ』は明確な違いがあるのか?

という点です。

 

正直、違いはありません。

浮気という言葉が適応されるのは、夫婦間、恋人間における関係上の問題であって

『愛情に対する軽薄さ』

言い換えると

『愛情の深さ』は全く適応外の位置にある事柄だからです。

 

よって、浮気=浮ついたもの、軽薄なもの、という意味は実質と異なると考えます。

 

愛情の深さ、が関係ないのだとすると、

じゃあどうして浮気って悲しいのでしょうか?

 

ものすごーく愛していた人に浮気をされたら、自分に愛情があったから、それを裏切られたから悲しいのだと思うかもしれません。

 

でも、それって多分違うんです。

 

浮気における私たちの大きな問題の一つは

『相手が自分の所有であると思っていること』

これだと思います。

 

恋人関係、夫婦関係、というのは全て社会的なものであることはご理解いただけると思います。

社会的という意味は、この世界に生まれて『教えられた』ものという意味と捉えてください。

つまり、初めからこの世界にあったものではなくて、社会によって作られたものなんです。

 

当たり前田のクラッカーって懐かしいギャグかが思いつくほど、

 

人間関係=自然界の理のように、初めから作られたルールはないもの

なんです。

 

一夫多妻なんかを例にとってみると、

浮気が生物的なもの、と言うよりも、とても文化的な側面を持つものだということが分かります。

 

それでも多くの文化で浮気=悪いこと、悲しいこと、とされているのは上記に書いた通りの考えが根本にあるからだと思います。

 

口約束でも書類でも構いませんが、ある『契約関係』にあると認識した他者に対して、

私たちは一定の所有欲を抱くのだと思ってください。

(いや、俺は私は大切なパートナーを所有なんてモノみたいな扱いしないし、束縛なんてしない!と思われた方もちょっと読んでみてください)

 

この所有欲、というのは

相手の肉体、精神が、ある契約によって、自分に一定の権利が許されている

と感じるが故の、欲望です。

 

ただの知り合いにキスをしたり、デートをしたり、肉体関係を結んだりはしません。

(セックスフレンドや行きずりの相手は別ですが、ちょっと話がずれてしまうので割愛します)

同じように、ただの知り合いに気を許したり愛を囁いたりはしません。

 

ある関係を結んでいるからこそ、許されている。

そう感じたときに、私たちは知らず知らずのうちに、その許容に執着するようになります。

 

肉体関係は快ですし、精神的快も手放したくないですもんね。

これを『契約』として制度化したのが、

恋人、夫婦です。

この制度があると私たちはパートナーから与えられる心地よい快を安心して受け取ることが出来ます。

快を与えてくれる存在の所有を目に見える形にしたものが、恋人関係、夫婦関係なんです。

 

 

さて、この快が無くなってしまったらどうしましょう。例えば、パートナーが他の人間と恋人関係を結ぼうとしたら?

そうしたら、きっと悲しいですよね。怒りますよね。

自分に快を与えてくれる存在が居なくなったら、とても辛いし困ります。

そこで登場するのが『契約』です。

私たちはパートナーに対して契約違反を迫ります。浮気とは言わば、一方的な契約違反ですからね。

 

ここまで読んでみて「なぁに当たり前のことを」って思われた方。

全くもってそうなんです。

 

浮気をされて悲しいのは、契約違反をされたからなんです。

 

自分に快を与えてくれる他者を、所有していると思い込ませることが『契約』。

そして、その『契約』が違反されることに対する悲しみ、それが全てなんです。

 

 

ちょっと話が変わります。

 

 

みなさん、所有してるものってありますか?

 

頭に思い浮かべてみてください。

とりあえず、私はパッとスマートフォンが思いつきました。それと服とか本とか色々ありますね。

 

思いついたなかに、

『自分を所有している』

って考えた人はいるでしょうか?

 

これまでの文章を読んでくれた人は、自分の子供や恋人、ペットが自分の所有であるとは

考えないかもしれません。

 

でも、どうでしょう?

『自分自身』って所有していますか?

 

もう一度、グーグル先生に登場していただきましょう。

『所有』とは、

 

〈(自分のものとして)持つこと。所持〉

 

とのこと。

 

自分を自分のものとして持つ???

 

サッパリですね。意味不明の極致です。

哲学科に居ると〈わたし〉が〈わたし〉であることの〜うんぬん〜みたいな文章をめちゃくちゃ読まされます。わたしのゲシュタルト崩壊が起こる前に先に進みます。

 

自分の肉体と精神を分けて考えたときに、それはあなたの思い通りになっているでしょうか?

 

大抵の人はなっていないんじゃないかなあと思います。

 

肉体は顕著です。指が切れたら勝手に痛がるし、知らないところで内臓が勝手にウイルスと戦ってるし、全然思い通りになりません。

 

精神は? いま、このブログを読んでいるあなたの精神は思い通りになっていますか?

ちなみに、私は全然思い通りになっていません。

そもそも。この文章を打ち込んでいる私の精神が目に見えないし、どうやって脳内で話しているのかも分からないし、どこに存在しているのかすら分からないんです。

存在していることをわたしの精神自体が認識しているので、多分あるんだろうなあとは思うんですけどね。

 

(明日から使える言葉でコギト・エルゴ・スムというやつです。初めて哲学科っぽいです。

デカルトのスーパー有名な『我思うゆえに我あり』ってやつです。

ちなみにデカルトはこの後、この説を辞めちゃったらしいんですけど理由を知らないので、詳しい人が居たら教えてくれると嬉しいです)

 

ただ精神分析の世界では

顕在意識、潜在意識、無意識

と分かれるそうなので、

精神分析を信用すると意識=精神も

私たちの思い通りになっていないことになりますね。

 

この思い通りになっていない『自分』が、

果たして所有しているモノだと表現できるのでしょうか?

ボヤーッとした話なのでちゃんとした根拠は無いわけですが、

完璧に同意できる話ではないことは伝わったかと思います。

 

それでは元の話に戻ります。

 

自分自身すら所有しているか怪しい人間が、

他者を所有することは可能か?

 

これは無理っぽいなーって思いませんか。

肉体も精神も、やっぱり所有することは出来ないんです。

それなのに、私たちは誰かを自分のモノであるように思い込んでしまうんですね。

 

この思い込み、悪いことばかりじゃありません。

これを『愛』だと表現する人たちは、この思い込みを生きる糧にします。文学にします。物語にします。

 

だから浮気されて悲しい……となったとき、

冷静になりたい瞬間があったらこの記事を思い出してくれると、

関係性復帰のための手がかりになるやもですね。

 

長々と書きましたが、

①なぜ浮気をされると悲しいのか

に対する解答は、

 

契約関係により所有していると感じているパートナーの、契約の一方的破棄により利益が得られなくなる為。

 

と一応結論付けておきます。

 

続いて、次の記事では

②なぜ浮気は社会悪とされるのか

について考えたいと思います。

 

ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。

感想、ご意見、ご批判、あればどしどしコメント下さると泣いて喜びます。

 

 

浮気について哲学した話①

 

去年あたりから世間が浮気フィーバーになりまして、男女問わず大騒ぎでしたね。

今回は浮気について考えたことを書きます。

 

浮気=悪いこと、というイメージは学校から教わるでもなく、いつのまにか身についている情報ですね。

実際に恋愛体験には「浮気」は付き物です。隣のクラスの何ちゃんが塾の誰それと浮気しただの、彼女持ちの三年生が一年生に手を出しただのと、ゲスい話題はみんな大好物です。

 

でも浮気が悪いことである理由を説明出来るでしょうか?

 

付き合っている人を傷つけるから?

非道徳的だから?

世間体が悪いから?

 

全て間違ってはいないと思います。

パートナーにとって浮気とは悲しい出来事ですし、世間から見たら非道徳的であると非難される事象の1つと見なされています。

 

ただ、ここで哲学科的に考えると、

じゃあ、その浮気がなんで悲しくて非道徳的だと見なされるようになったんだろう?

と気になります。

 

もし、パートナーが浮気しても悲しくならなかったら?

もし、世間から後ろ指を指される行いだと見なされていなかったら?

 

それは悪いことにはならないでしょう。

夫婦公認の恋愛や、冷めきったパートナー関係の場合そのようなことになるかもしれませんね。

 

また、浮気の話に付き物の「男女間の違い」も触れておくべきでしょう。

異性同性関わらず、恋人としてお付き合いすることに対して寛容になりましたが、

今回に限っては男女間の浮気に焦点を絞ってお話しします。

LGBTの方々の間で、以下に述べる内容が違うな、と感じた方は是非教えてくださると嬉しいです)

 

ということで、前置きが長くなりましたが

これから、

 

①なぜ浮気をされると悲しいのか

②なぜ浮気は社会的悪なのか

③男女間の浮気に対する考え方の違い

 

について、哲学科のボンクラが考えます。